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最高裁判所第一小法廷 昭和52年(行ツ)56号 判決 1982年9月09日

上告人

宇野邦晴

外一二七名

右一二八名訴訟代理人

佐伯静治

外五四〇名

被上告人

農林水産大臣

田澤吉郎

右指定代理人

並木茂

外二名

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人佐伯静治、同新井章、同池田真規、同今永博彬、同五十嵐義三、同岩崎修、同猪狩久一、同猪狩康代、同榎本信行、同尾崎陞、同大森典子、同風早八十二、同川村俊紀、同郷路征記、同後藤徹、同今重一、同今瞭美、同佐藤文彦、同佐藤太勝、同佐藤義雄、同斎藤了一、同鈴木悦郎、同田村徹、同田中宏、同内藤功、同中村仁、同彦坂敏尚、同林信一、同広谷陸男、同牧雅俊、同三津橋彬、同吉原正八郎、同渡辺良夫、同中島達敬の上告理由について

上告人らが上告理由第二部第一点ないし第四点(第一部中これに関連する部分を含む。)において主張するところは、要するに、本件保安林指定解除処分取消訴訟における本案前の問題としての上告人らの原告適格及び訴えの利益の有無に関して原審が示した認定判断には解釈適用の誤りや理由齟齬、事実誤認、審理不尽、理由不備の違法があるというにあるが、上告人らの主張と原審の認定判断の間には原告適格ないし訴えの利益について基本的な見解の相違が存在し、それが上告理由の各論点の底流をなしていると考えられるので、以下においては、右の基本的問題との関連において各上告理由を本件における原告適格、訴えの利益の消滅、いわゆる跡地利用と原告適格ないし訴えの利益との関係の各項目に区分し、そのそれぞれにつき順を追つて当裁判所の見解と判断を示すこととする。

一  原告適格について(上告理由第二部第一点関係)

森林法(以下「法」という。)上、農林水産大臣は、水源のかん養その他法二五条一項各号に掲げられている目的を達成するため必要があるときは、森林を保安林として指定することができるとされており、いつたん保安林の指定があると、当該森林における立木竹の伐採、立木の損傷、家畜の放牧、下草・落葉・落枝の採取又は土石・樹根の採掘、開墾その他の土地の形質を変更する行為が原則として禁止され、当該森林の所有者等が立木の伐採跡地につき植栽義務を負うなど、種々の制限が課せられるほか(法三四条、三四条の二)、違反者に対しては、都道府県知事の監督処分が規定されており、(法三八条)、また、罰則による制裁も設けられている(法二〇六条三号ないし五号、二〇九条等)。このように、保安林指定処分は、森林所有者等その直接の名宛人に対しては、私権の制限を伴う不利益処分の性格を有するものであるが、他方、右処分によつて達成しようとする目的として法二五条一項各号が掲げるところを通覧すると、それらはおおむね、当該森林の存続によつて周辺住民その他の不特定多数者が受ける生活上の利益とみられるものであつて、法は、これらの利益を自然災害の防止、環境の保全、風致の保存などの一般的公益としてとらえ、かかる公益の保護、増進を目的として保安林指定という私権制限処分を定めたものと考えられるのである。

ところで、一般に法律が対立する利益の調整として一方の利益のために他方の利益に制約を課する場合において、それが個々の利益主体間の利害の調整を図るというよりもむしろ、一方の利益が現在及び将来における不特定多数者の顕在的又は潜在的な利益の全体を包含するものであることに鑑み、これを個別的利益を超えた抽象的・一般的な公益としてとらえ、かかる公益保護の見地からこれと対立する他方の利益に制限を課したものとみられるとぎには、通常、当該公益に包含される不特定多数者の個々人に帰属する具体的利益は、直接的には右法律の保護する個別的利益としての地位を有せず、いわば右の一般的公益の保護を通じて附随的、反射的に保護される利益たる地位を有するにすぎないとされているものと解されるから、そうである限りは、かかる公益保護のための私権制限に関する措置についての行政庁の処分が法律の規定に違反し、法の保護する公益を違法に侵害するものであつても、そこに包含される不特定多数者の個別的利益の侵害は単なる法の反射的利益の侵害にとどまり、かかる侵害を受けたにすぎない者は、右処分の取消しを求めるについて行政事件訴訟法九条に定める法律上の利益を有する者には該当しないものと解すべきである。しかしながら、他方、法律が、これらの利益を専ら右のような一般的公益の中に吸収解消せしめるにとどめず、これと並んで、それらの利益の全部又は一部につきそれが帰属する個々人の個別的利益としてもこれを保護すべきものとすることももとより可能であつて、特定の法律の規定がこのような趣旨を含むものと解されるときは、右法律の規定に違反してされた行政庁の処分に対し、これらの利益を害されたとする個々人においてその処分の取消しを訴求する原告適格を有するものと解することに、なんら妨げはないというべきである。

これを前記森林法所定の保安林指定処分についてみるのに、右処分が一般的公益の保護を目的とする処分とみられることは前記のとおりであるが、法は他方において、利害関係を有する地方公共団体の長のほかに、保安林の指定に「直接の利害関係を有する者」において、森林を保安林として指定すべき農林水産大臣に申請することができるものとし(法二七条一項)、また、農林水産大臣が保安林の指定を解除しようとする場合に、右の「直接の利害関係を有する者」がこれに異議があるときは、意見書を提出し、公開の聴聞手続に参加することができるものとしており(法二九条、三〇条、三二条)、これらの規定と、旧森林法(明治四〇年法律第四三号)二四条においては「直接利害ノ関係ヲ有スル者」に対して保安林の指定及び解除の処分に対する訴願及び行政訴訟の提起が認められていた沿革とをあわせ考えると、法は、森林の存続によつて不特定多数者の受ける生活利益のうち一定範囲のものを公益と並んで保護すべき個人の個別的利益としてとらえ、かかる利益の帰属者に対し保安林の指定につき「直接の利害関係を有する者」としてその利益主張をすることができる地位を法律上付与しているものと解するのが相当である。そうすると、かかる「直接の利害関係を有する者」は、保安林の指定が違法に解除され、それによつて自己の利益を害された場合には、右解除処分に対する取消しの訴えを提起する原告適格を有する者ということができるけれども、その反面、それ以外の者は、たといこれによつてなんらかの事実上の利益を害されることがあつても、右のような取消訴訟の原告適格を有するものとすることはできないというべきである。

そこで進んで法二七条一項にいう「直接の利害関係を有する者」の意義ないし範囲について考えるのに、法二五条一項各号に掲げる目的に含まれる不特定多数者の生活利益は極めて多種多様であるから、結局、そのそれぞれの生活利益の具体的内容と性質、その重要性、森林の存続との具体的な関連の内容及び程度等に照らし、「直接の利害関係を有する者」として前記のような法的地位を付与するのが相当であるかどうかによつて、これを決するほかはないと考えられる。原審は、特定の保安林の指定に際して、具体的な地形、地質、気象条件、受益主体との関連性から、処分に伴う直接的影響が及ぶものとして配慮されたものと認めうる個々人の生活利益をもつて、当該処分による個別的・具体的な法的利益と認めるべきものとし、本件保安林は、長沼町一円の農業用水確保目的を動機として、水源かん養保安林として指定されたものであり、その指定に当たつては、右農業用水の確保のほか、洪水予防、飲料水の確保という効果も配慮され、右処分によるその実現が期待されていたものと認め、これらの利益を右の個別的・具体的な法的利益とし、進んで右の見地から、本件保安林の有する理水機能が直接重要に作用する一定範囲の地域、すなわち保安林の伐採による理水機能の低下により洪水緩和、渇水予防の点において直接に影響を被る一定範囲の地域に居住する住民についてのみ原告適格を認めるべきものとしているのであるが、原審の右見解は、おおむね前記「直接の利害関係を有する者」に相当するものを限定指示しているものということができるのであつて、その限りにおいて原審の右見解は、結論において正当というべきである。ところで、原審の認定によれば、本件保安林のうち原判決添付図面一表示の(イ)斜線部分(以下「本件保安林部分」という。)の伐採により農業用水及び飲料水の不足の影響を受ける範囲はそれぞれ右図面表示の(ロ)斜線部分及び破線内の範囲に限られるものと認められ、また、富士戸川の本支流から東四線排水路、零号排水路を経由して馬追運河に至る流域は、本件保安林部分からの流水による直接的水害のおそれが認められ、その水害対策が講ぜられるべき地帯であるが、馬追運河排水機場は、右水害防止対策として流水排出のために設置された設備であるところ、馬追運河排水機場流域(右図面における実線表示の範囲。以下「排水機場流域」という。)はその機械排水能力の及ぶ範囲として地形上予定されているものであると認められ、本件保安林の指定に際し、本件保安林部分に関しては、排水機場流域が水害防止必要地域として直接の影響の及ぶ範囲として考慮されたものと解するのが相当である、というのであり、原審は、これらの認定に基づいて排水機場流域(農業用水及び飲料水の不足の影響を受ける地域はこの中に含まれている。)内に居住する者のみが本件保安林部分の伐採による理水機能の低下によつて直接の影響を受ける者に当たるとしている。所論は、排水機場流域は本件保安林部分の伐採によつて洪水の危険が生ずる地域に含まれるといいうるとしても、後者の範囲は当然には前者の範囲に限られるとはいえない旨主張するが、原審の上記認定判断は原判決挙示の証拠関係に照らして是認することができないではなく、その過程に右所論の違法があるということはできない。そうすると、上告人らのうち本件記録上排水機場流域内に居住する者でないことが明らかな原判決添付別紙当事者目録中に甲と表示のある者は、いずれも前記「直接の利害関係を有する者」に当たらないものというべく、したがつて、右上告人らの本件訴えは原告適格を欠く不適法のものであるとした原審の判断は、結局、正当として是認することができる。(仮に所論のように本件保安林部分の伐採による理水機能の低下によつて洪水の危険が生ずる地域が排水機場流域よりも広く、したがつて、排水機場流域外に居住する上告人らについても原告適格を肯定する余地があるとしても、後記「二」において判示するように、排水機場流域内に居住する上告人らについても訴えの利益が消滅するに至つたとされる関係にある以上、右地域外に居住する上告人らについても同様に考えられるから、右の点に関する認定判断の違法は、結局、原判決の結論に影響を及ぼす瑕疵とはならないというべきである。)

なお、所論は、原審が本件訴訟の原告適格につき排水機場流域内に居住する者のみに限つてこれを認め、非居住者でも洪水によつて生活上なんらかの態様で影響を受ける者についてこれを認めなかつたことは行政事件訴訟法九条の解釈を誤つたものであると主張するが、さきに説示したとおり、かかる非居住者の利益は前記一般的公益に包含され、これとは別個独立の保護法益として存在をもつものではなく、たかだか地域住民の利益の代表者として関係地方公共団体の長がその利益主張の任に当たるものとされているにすぎないと解すべきであるから、右論旨も採用することができない。

二  訴えの利益の消滅について(上告理由第二部第二点関係)

前記の見解のもとに上告人らのうち原告適格を有するとされた排水機場流域内に居住する者(原判決添付別紙当事者目録中に乙と表示のある者。以下「乙と表示のある上告人ら」という。)についても、本件保安林指定解除処分後の事情の変化により、右原告適格の基礎とされている右処分による個別的・具体的な個人的利益の侵害状態が解消するに至つた場合には、もはや右被侵害利益の回復を目的とする訴えの利益は失われるに至つたものとせざるをえない。換言すれば、乙と表示のある上告人らの原告適格の基礎は、本件保安林指定解除処分に基づく立木竹の伐採に伴う理水機能の低下の影響を直接受ける点において右保安林の存在による洪水や渇水の防止上の利益を侵害されているところにあるのであるから、本件におけるいわゆる代替施設の設置によって右の洪水や渇水の危険が解消され、その防止上からは本件保安林の存続の必要性がなくなつたと認められるに至つたときは、もはや乙と表示のある上告人らにおいて右指定解除処分の取消しを求める訴えの利益は失われるに至つたものといわざるをえないのである。

そこで進んで所論が専ら問題とするいわゆる代替施設による洪水の危険の解消に関する原審の判断について検討する。

原審は、まず、砂防施設に関し、砂防堰堤は、その建設による随伴的効果として、渓床勾配の緩化をもたらし、これによる流水の流速低下、山脚固定等により、洪水調節の機能をもたらすことが肯認されるところ、札幌防衛施設局が富士戸川の本支流の沢部分に建設した七基の砂防堰堤は、合計二万三三〇立方メートルの計画貯砂能力を有し、完成後四年九か月を経た時点において、計算上向後なお少なくとも三〇年を越える期間土砂の流出防止の機能を発揮することが期待されうるものと認定判断している。

次に、原審は、本件の主要な洪水防止施設である富士戸一号堰堤の余水吐が発揮しうる洪水調節能力について、本件保安林部分を含む富士戸川の本支流の集水地域3.76平方キロメートル(以下「本件流域」という。)における降雨量(確率日雨量)及び右降雨量から算出して得られる富士戸一号堰堤への最大洪水流入量を推定し、右最大洪水流入量に対する右余水吐の排出能力を測定するという方法を採用し、おおむね次のとおり認定判断している。すなわち、本件流域附近の長沼観測所の大正一四年から昭和四八年までの間の四六年(昭和一三年、同二三年、同二四年は欠測)の各年最大日雨量をもとにし、確率年として一〇〇年の長期を選択して、一〇〇年確率最大日雨量を算出した結果151.9ミリメートルの数値を得、これにさらに農林省農地局制定の「土地改良事業計画設計基準」(昭和四一年六月三〇日改定)による安全率1.2を乗じて182.3ミリメートルを本件流域における降雨量(確率日雨量)として採用した。そして、右日雨量182.3ミリメートルについての雨量分布(降雨量の時間配分)を推定し、単位流出量及び流出率を決定し、これを前記雨量分布に適用して、有効雨量、時間別流出量及び合成流出量を算出した結果、本件保安林部分を除いた本件流域からの最大洪水流出量を毎秒16.448立方メートル、本件保安林部分からの最大洪水流出量を毎秒4.931立方メートルと算定し、その合計毎秒21.379立方メートルを本件流域から富士戸一号堰堤に流入すると推定される最大洪水流入量であるとしている。次に、原審は、右最大洪水流入量毎秒21.379立方メートルが富士戸一号堰堤を通過し余水吐から流下するときは、その洪水調節機能によつて毎秒約16.60立方メートルに減量され、十分な余裕高が残されるとし、しかも、右最大洪水流入量毎秒21.379立方メートルに1.2を乗じた異常洪水量毎秒25.655立方メートルが富士戸一号堰堤に流入すると仮定した場合でも、右余水吐からの流下量は、毎秒約20.20立方メートルに減量されるのみならず、日雨量三二〇ミリメートルまでの降雨による洪水の場合でも、最大洪水流出量は毎秒約四六立方メートル、余水吐からの最大排出量は毎秒約35.8立方メートルと計算されるが、堤頂との間に風波高0.6メートルを残した堰堤水位標高24.40メートルの状態のもとにおいて可能な右余水吐の最大排水量毎秒36.11立方メートルをもつてすれば、右の雨量までの降雨による洪水に対してもこれを調節することができ、したがつてまた、富士戸一号堰堤の越流による決壊の蓋然性は無視しうる程度に低いものとみて誤りないとしている。

そして原審は、以上認定の事実関係に基づき、各砂防堰堤の土砂流出防止機能と富士戸一号堰堤の洪水調節能力とにより、乙と表示のある上告人らの居住する地域における洪水の危険は社会通念上なくなつたものと認定判断しているものと解される。

以上の原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし是認することができないではなく、その過程に所論の違法があるということはできない。所論は、また、原審は右の点につき適切な証拠資料の提出の機会を封じたまま、不完全・不十分な証拠資料のみに基づいて判断を下した点において審理不尽の違法を免れないというが、右はひつきよう原審の専権に属する証拠調の必要性に関する判断の不当をいうものにすぎないのみならず、かかる証拠資料の取調べが原審の前記認定判断の結論に明らかに影響を及ぼすと認めるべき根拠を見出すこともできないので、右論旨は、結局、採用することができない。

してみると、本件保安林の指定解除に伴う乙と表示のある上告人らの利益侵害の状態はなくなつたと認められるのであるから、右上告人らが本件保安林指定解除処分の取消しを求める訴えの利益は失われたものというべきであり、本件訴えは不適法として却下を免れないとした原審の判断は、正当として是認することができる。なお、所論は、本件における訴えの利益の消滅というような本案前の問題については、その認定について慎重な態度をとるべきものであり、前記のように洪水の危険性が社会通念上なくなつたと認められるだけでは足りず、あらゆる科学的検証の結果に照らしてかかる危険がないと確実に断定することができる場合にのみ訴えの利益の消滅を肯定すべきであるというが、右は独自の見解であつて採用することができない。

三  いわゆる跡地利用と原告適格ないし訴えの利益との関係について(上告理由第二部第三点及び第四点関係)

論旨は、要するに、本件保安林指定解除処分が解除後の跡地利用に対する許可処分の一面をも有することを前提とし、右解除処分の目的である本件ミサイル基地設置に伴い上告人らの平和的生存権が侵害されるおそれがあるので、上告人らは被上告人の公益判断の誤りを理由として右処分を争う法律上の利益を有する、というのである。

しかしながら、本件訴訟の原告適格は、本件保安林の指定について「直接の利害関係を有する者」に当たる乙と表示のある上告人らについてのみ認められるものであり、その原告適格の基礎となる訴えの利益も、専らその直接の利害関係を基礎づける立木竹の伐採等に伴う洪水や渇水の危険の防止の点に存するものであることは、上来説示したとおりであつて、伐採後のいわゆる跡地利用によつて生ずべき利益の侵害のごときは、指定解除処分の取消訴訟の原告適格を基礎づけるものには当たらないのである。もつとも、本件保安林の指定解除処分が取り消されれば、右保安林が伐採されることもなく、また、伐採されても非森林として自由に使用することができなくなる結果、所論のような跡地利用も事実上不可能となり、したがつてかかる利用によつて生ずる利益侵害の危険もなくなるという関係が存在することは確かであるが、このような関係があるからといつて、右跡地利用による利益侵害の危険をもつて右指定解除処分の取消訴訟の原告適格を基礎づける法律上の利益を構成するものと解することはできない。なお、所論は、法二六条二項による保安林指定解除処分はその理由となつた伐採後における特定の跡地利用に対する許可を含むものと解すべきであるというが、右指定解除処分がかかる許可を含み、ないしは許可の効果を生ずると解すべき理由はない。また、かかる跡地利用の内容及び性質は本件保安林の指定解除処分を適法にすることができるかどうかの実体上の問題において重要な論点となりうるものであることは所論のとおりであるが、この点は本案前の訴訟要件の有無の問題に関する限り特段の意味をもつものとはいえない。それ故、乙と表示のある上告人ら以外の上告人らについて原審が本件訴訟の原告適格を認めなかつたこと、及び乙と表示のある上告人らについても、原審が、本件保安林の指定解除処分による前記洪水、渇水防止上の利益の侵害が解消した以上、本件訴えの利益は消滅したといわざるをえないとし、右利益の存否を判断するにつき、伐採後の跡地利用による利益侵害のおそれの有無を問わなかつたことは、いずれも、結局、正当として是認されるべきである。なお、所論中いわゆる平和的生存権に関する原審の判断の不当をいう部分は、原判決の右結論に影響のない点についてその判示の不当をいうものにすぎない。それ故、論旨は採用することができない。

よつて、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官藤﨑萬里の意見及び裁判官団藤重光の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

裁判官藤﨑萬里の意見は、次のとおりである。

本件訴えを却下すべきものとすることについては、私も多数意見と結論を同じくするものであるが、その理由については見解を異にする。

多数意見は、結局において原判決と同様に、上告人らのうちの一部の者については原告適格を欠くことを理由に、その余の者については原告適格を有することを認めたうえ訴えの利益を喪失したことを理由に訴えを不適法とするものであるが、私は、上告人らはすべて原告適格を欠くことを理由に訴えを不適法であるとすべきものと考える。

多数意見は、森林法二七条一項の規定を援用し、原審が原告適格を認めている者はおおむね右規定にいう「直接の利害関係を有する者」に相当するから、原審の見解はその結論において正当であるとする。しかし、私には、右規定が行政事件訴訟法九条に基づく原告適格の問題についての判断を左右しうるような規定であるとは思われない。

そうすると、本件の場合も、この種の問題における原則的な考え方によるべきことになるが、その原則的な考え方は、多数意見にもあるとおり、要するに、公益に包含される不特定多数者の個別的利益の侵害は単なる法の反射的利益の侵害にとどまり、かかる侵害を受けたにすぎない者は行政事件訴訟法九条に定める法律上の利益を有する者には該当しない、ということである。従つて、上告人らのうちの一部の者に原告適格を認めることは、右の原則に対する例外を認めることを意味する。しかも、それは法的に極めて重大な例外であるといわなければならない。なぜならば、一つには、この例外によつて侵される原則が行政法理論上の一つの基本的な原則であるからであり、二つには、例外の内容が一般的には原告適格を認められない者にこれを認めるという訴訟法上の重要問題にかかわるからである。これほど重大な例外を認める以上、そこには当然それを正当化するに足りる事由がなければならないが、それは、結局、当事者の有する利害関係の格別の重大さに求めるほかないであろう。ところが、本件において原告適格を認められた者の有する利害関係の実体にそれほど他から隔絶したものがあるとは思われないのである。

裁判官団藤重光の反対意見は、次のとおりである。

本件保安林指定解除処分取消訴訟における原告適格ないし訴えの利益の問題について多数意見が森林法の解釈として詳細に説示するところは、すべて、同時にわたくしの考えでもある。ただ、多数意見中、わずかに一点だけ、原判決の理解についてわたくしとしては同調に躊躇を感じる部分があり、そのわずかな理解の相違が多数意見とは反対の結論に導くのである。

その一点とは、多数意見が、「二」の「訴えの利益の消滅について(上告理由第二部第二点関係)」の項の中で、「そして原審は、以上認定の事実関係に基づき、各砂防堰堤の土砂流出防止機能と富土戸一号堰堤の洪水調節能力とにより、乙と表示のある上告人らの居住する地域における洪水の危険は社会通念上なくなつたものと認定判断しているものと解される」としている箇所に関する。原判決がはたしてそのように洪水の危険が社会通念上なくなつたものと認定判断しているものといえるかどうかについて、わたくしとしては、なお、不安を払拭し切れないのである。問題は、原審が訴えの利益の問題について、かならずしも多数意見(私見も同様)と同一の見解をとつてはいないのではないかとおもわれる点にある。原判決はもつぱら本件代替施設が「伐採前の本件保安林が果していた理水機能による洪水防止の機能に代る機能を十分に営み得るものである」かどうかの点に着眼して、これを肯定的に認定判断しているのである。つまり、多数意見や私見においては、端的に本件代替施設の設置によつて洪水や渇水の危険が解消されたと認められるにいたつたかどうかを問題としているのに対して、原審は、単に右施設の理水機能が伐採前の本件保安林のそれと同程度のものになつたかどうかを問うているにすぎない。なるほど、両見解の相違は、実際問題としては、特段の事情でもないかぎり、ほとんど無視されうる程度のものであろうし、また、原判決は、多数意見や私見のような見解を別に想定した上で、これと異なる見解を採る趣旨で前記のような認定判断をしたものではないかも知れないが、だからといつて、多数意見のように原判決を解釈して当該地域における洪水の危険がなくなつたものと認定判断している趣旨と解するのには、やや無理があるのではあるまいか。わたくしは、やはり、原審をして正しい理論的前提のもとに改めて訴えの利益の消滅の有無について審理を尽さしめるのが本筋だとおもうのであり、原判決を破棄して事件を原審に差し戻すのが相当であると考える。

(団藤重光 藤﨑萬里 中村治朗 谷口正孝 本山亨)

上告代理人佐伯静治、同新井章、同池田真規、同今永博彬、同五十嵐義三、同岩崎修、同猪狩久一、同猪狩康代、同榎本信行、同尾崎陞、同大森典子、同風早八十二、同川村俊紀、同郷路征記、同後藤徹、同今重一、同今瞭美、同佐藤文彦、同佐藤太勝、同佐藤義雄、同斎藤了一、同鈴木悦郎、同田村徹、同田中宏、同内藤功、同中村仁、同彦坂敏尚、同林信一、同広谷陸男、同牧雅俊、同三津橋彬、同吉原正八郎、同渡辺良夫、同中島達敬の上告理由

はじめに

――本上告事件の課題と最高裁判所への要望――

原判決に対する上告理由は後に詳述するが、それに先立つてここに上告人の上告の本旨を明らかにし、あわせて貴最高裁判所に対する要望を述べておきたい。

一、上告人らは、本件上告審において貴裁判所に対し、原判決破棄、差戻しの判決を求めるものである。その理由は、

第一に、原判決は上告人らに原告適格なし、または訴の利益なしとしてその訴えを却下するというものであり、上告人の上告理由もこの点に宛てられたものであるから(後述参照)「上告裁判所ハ上告理由ニ基キ不服ノ申立アリタル限度ニ於テノミ調査ヲ為ス」(民事訴訟法四〇二条)べきものである以上、右は当然の理だからである。

第二に、ことを実質的にみても、後に述べるように原審の訴え却下の判断は十分な審理と証拠資料の蒐集なしに強行された憾みを多分にもつており、上告理由もまたこの瑕疵をつくもの(そこにいう「審理不尽」の違法はもとより、「法令違背」の瑕疵も大いに原審の不十分な審理とかかわつている)であるゆえ、被上告人の本案前の抗弁の成否について確定的な判断を下すためには、なお原審における事実審理の余地があるからである。

第三に、原判決は、その判決理由中にあえて「第六、自衛隊等違憲の主張について」なる一項を設けて、本案の最大の争点について「見解を付加」しているが、これは判文上明示されているように、原審「裁判所の結論並びにその理由」とはかかわりのない、文字どおり「付け足し」の「見解」に過ぎないから、これに対しては上告理由の対象としてとり上げるべき筋合いでないことはもとよりであり、したがつて上告裁判所が判断を下す限りでないこともまた多言を要しない。ましてや、このような原審の付加見解に機会をかりて、上告裁判所が自らの本案判断を「付加見解」として示すがごときことは余りに失当に過ぎ、論外の沙汰である。なんとなれば、原審の付加見解はその判決の理由構成上不必要というばかりでなく、原審が当事者らの主張や立証を十分尽くさせることなく、あえてうち出したという点で著しく相当を欠く「見解」であること後述のとおりであるから、御庁がこの「見解」あることに藉口して、再度同じ点につき、上告理由に対する判断、すなわち上告審判決の理由構成とはかかわりのない独自の「見解」を「付加」することは、右の不必要・不相当性を一層著大化し、たとえ法律上の争点であれ当事者の主張や立証を能うかぎり尽くさせたうえで裁判所の判断を示すという、裁判の常道からますます遠ざかることとなるからである。

二、したがつて、上告人らは本件上告審において貴裁判所に対し自衛隊(法)の憲法適否に関する判断を求めないし、また裁判所としても判断を示すべきではないと考える。上告人らとしては、本件における最大の争点というべき自衛隊(法)の憲法適否の問題は、その点の審理なかばにして弁論をうち切つた原審が、貴裁判所の差戻し判決をうけて審理を再開し、双方当事者にこの点に関する弁論を尽くさせた上で更めて判断を示すべきが筋合であり(上級審の判断はそののちということになる)、さればこそさような原審の審理と判決の経過をたどつた本件の上告裁判所としては、訴訟要件に関する原判決の判断の是非(ひいてはさような判断に跼蹐した原審の違憲審査の姿勢の当否)の吟味・検討に徹すべく、その埓をはずれて原審のように遮二無二自衛隊の憲法適否についての独自の「見解」を示すことを急ぐべきではないと考えるものである。

のちに上告人らが、原判決が付加見解を付したことの問題性や同見解の内容の問題点を摘示するのは、それらの点についていちいち貴裁判所の判断を求める趣旨ではなく、それらの諸点に原審裁判所の本件訴訟に対する基本姿勢――端的にいえば原審裁判所の法律外的、政治的態度――露わにあらわれており、その基本姿勢の歪み・政治性が判決の一体性を通じて、原告適格等に関する原審の判断にも間違いなく歪みをもたらしていることを明らかにする趣旨に外ならない。

三、かつて、一九七一年六月にアメリカ最高裁は、ニューヨーク・タイムスが政府のベトナム戦争介入の過程を分析した国防総省秘密報告書の内容をすつぱ抜いた、いわゆるベトナム文書事件の裁判において、政府の重要な秘密文書を新聞紙上に公表し報道することは「国家の安全に脅威を与え、国益に反する」として報道の差止めを求める政府と、そのような重要な文書であればこそ、その内容を「国民の知る権利」の名において公表することこそ、民主主義社会の国益に合致すると主張する新聞社との対立をふまえ、結局さような新聞報道の禁止は「違憲の疑い」があるとして新聞社側にくみし、人権保障を貫く判決をうち出したが、この判決が強大な行政府の圧力に屈せず、また「国益」というコトバの魔術性にもまどわされぬ米国司法の健全さ、また司法をしてかくあらしめ得たアメリカ社会の民主主義の根強さに全世界の人々の眼を見はらせ、その魂をゆさぶるほどの深い感銘を与えたことは、いまだわれわれの記憶に新しい。

本件も、その内容からして、上告人らの生命・身体の安全やその他もろもろの人権と、国防という名の「国益」との対立(もとより上告人らはこれを真の意味での「対立」とは考えないが)があげつらわれている事案であり、事実、被上告人は一審以来、くりかえし「かかる防衛問題は、国民に直接責任を負う政治部門の決定にゆだねられるべき事柄であつて、国民に対し直接に責任を負わない裁判所が判断すべきことではない。」とか、「もし、裁判によつて自衛隊が違憲であり、かつ、その関係法規も違憲であると判断された結果、自衛隊も防衛庁も廃止されたとした場合において、他国から突然予告なくして侵害を受けることがあつたとしたら、わが国としては一体どのようにして自らを防衛し、国家を維持することができるのであろうか。もし、かような侵害から自国を守るすべもなく、そのまま国家が滅亡するに至つたとするならば、裁判所はどのようにして国民に対し責任をとることができるのであろうか。」などと“恫喝”して、裁判所をしてかれらのいう「国益」サイドに立たせようと躍起となつてきた。そして、原審はこともあろうにかかる“恫喝”に屈して、上告人らのかけがえのない生命・身体の安全などの諸人権に眼をつぶり、人権擁護の府としての司法府の職責を自ら放擲して、政治的な「国益」論に組みしたのである。

(憲)法の支配を国政のすみずみにまで貫徹し、国民の人権を全うすべき最終かつ最高の府である貴裁判所が、かかる原審、ひいては被上告人の姿勢の誤りをただし、安易な「国益」論にまどわされることなく、本件の由緒正しい解決を示すことによつて、国民になにが憲法の支配であり、なにが民主主義国家における司法のあり方であるかを理解させることこそ、真に国民の期待に応える所以といわねばならない。ことに、従来、アメリカのような違憲審査制の母国において、「日本の三権分立は、チェック・アンド・バランスの機能が米国ほどうまく働いていない。司法府は行政府との対立を極力避けようとし、立法府に至つては行政府に従属している印象だ」(朝日新聞昭五一・一〇・二〇)という、芳しからざる国際的評価を与えられてきたわが国司法にとつては、さような不名誉を払拭し、日本の司法の健全さを内外に再認識させるうえで、本件こそその好機ということができよう。

第一部 総論

――原判決の特徴とその根本的な誤り――

一、ここでは、原判決の個々の瑕疵を上告理由として取りあげるに先立ち、判決全体を通じてその特徴、問題点、そこにみられる根本的な誤りについて論ずることとする。

一般に上告理由は、原判決を検討して個々の瑕疵・問題点ごとにまとめられるが、もともと判決は一個の紛争事案に対する一個の解決として担当裁判官らによりうち出されるものであるから、その内容の論理構成や表現はいかようにもあれ、判決は全体として一個の解決意思=価値判断によつて貫かれているはずであり、したがつて判決のある部分は他の部分と密接不可分の関連をもち、一つの瑕疵は他の瑕疵と内在的に必然の関係に立つべきものである。

本件についていえば、原判決の訴の利益なし論(本来の判決部分)といわゆる附加見解とは一見切り離された別異の構成部分のようにみえながら、その実、内面的にはきわめて深い密接な関連を有しており、また原判決の原告適格判断の瑕疵(たとえば審理不尽の粗略性)は代替施設完備の判定のそれとは全く共通の原因性と特徴をそなえているのである。したがつて、原判決の個々の瑕疵を衝く上告論旨をよりよく理解し、正確に吟味・検討するために、それら個々の瑕疵を貫く原判決の全体的な特徴ないし問題点の指摘を顧ることが必要、有効であることは、何びとも歪みがたいところであろう。

また、判決は担当裁判所がそれに先立つて行なつてきた一連の審理の帰結であり、その審理の結果得られた心証の集大成でもあるから、判決の内容や趣意を真によく把握するためには、たんに判文を検討するだけでなく、そのような判決を生み出した審理過程が顧みられ、ふまえられることが望ましい。なぜそのような判決がみちびかれたか、いかにしてそのような判決が生み出されたかを理解することなしに、判決の内容・趣意の的確な把握はありえないというべきだからである。

したがつて、本節で述べられる原判決の全体的特徴、問題点などの指摘は、それ自体独立の上告理由をなすものではないが、後述する各上告理由の前提的ないし共通的論旨となるという意味で、上告理由の一部をなすものであることを予め申し述べておきたい。

二、原判決の特徴とその問題性

ところで原判決を一見して気付く最大の特徴は、それが判決の「結論並びにその理由」とは直接かかわりのない「附加見解」を伴つていることである。もちろん裁判所が直接判決の結論や理由の構成とはかかわりない争点判断を「念のために」判示することは前例がないわけではないが、本件原判決のそれはいくつかの点で、見逃すことのできない問題点を蔵しているのである。

それは、第一に、かつてのいわゆる朝日訴訟における最高裁判決(昭四二・五・二四、民集二一巻五号一〇四三頁)のように、上級審として判例統一を図る目的からあえて法的「見解」を附陳するというのならまだしも、下級審裁判所たる原審が、いまだ判例の混乱も存しないのにあえて「自衛隊等違憲の主張」について「見解を付加」したという点であつて、これはきわめて異例であり、不自然である。

第二に、この点について、原判決は、「被控訴人らは……本案に関する争点の一である自衛隊等の憲法適合性判断の点につき、原審以来本件訴訟において裁判所に判断を求める実質的な対象として詳細な弁論をなし、控訴人もまたこれを重要争点として係争してきたものであり、原審もこの点について判断をなしているところ、当裁判所はこれと異なる結論を有するので、」と述べているが、原審における裁判長らの訴訟指揮およびその他の審理経過からすれば、原審裁判所は本案前の抗弁の成否に一貫して重大な関心を寄せ、本案の争点については第九回口頭弁論期日における“突然の結審”措置にみられるように、当事者の主張・立証を途半ばで打ち切り、審理・判断を施さない(施すべきでない)とするかのごとき態度を執つてきたこと、一件記録に徴して明らかであり(とくに別表参照)また大方に知られるところでもあつた。(原審が本案について、たんに双方当事者の主張の整理をはかる程度に止まり、ただ一人の証人も取調べずに終つたことは、記録上明白である。)ことに原判決が附加見解の中でうち出した憲法八一条論や統治行為論については、一審裁判所が判決中で論及したという以外に、両当事者が一審以来の主張・立証(参考資料の提出や専門家証人の申請など)で十分これを尽くしたとは致底言いがたく(一審では裁判所が違憲審査を回避しないであろうことがその執行停止決定の内容からほぼ予想されていたので、両当事者、とくに上告人らは殆んどこれらの論点に言及しなかつた)、ましてや原審が展開したような独自の憲法八一条解釈や統治行為論については原判決ではじめて打ち出される以前には、かつてどの訴訟関係者からも示唆され、あるいは論争されたことがなかつたのである。

このように、上告人らが一審以来自衛隊の憲法適合性につき裁判所に判断を求めつづけてきたに拘らず、原審裁判所は一方でこれを拒絶するかのごとき態度を公然と示して訴訟指揮を進めてきながら、他方で突如としてこの点に触れて独自の見解を示すという措置をとつたわけで、かような「見解」の附け加え、いいかえれば争点処理の方法は、当事者にとつて“だまし打ち”でなければ少くとも“不意打ち”を意味し、裁判の常道をはずれた不公正なものといわざるをえない。

因に、かつて朝日訴訟の一審判決(昭三五・一〇・一九、行裁例集一一巻一〇号二九二一頁)も、生活保護入院患者の生活扶助基準額(日用品費)がそれ自体としてすでに生活保護法三条にいう「健康で文化的な生活水準」を下廻る違法なものであるとしながら、なお「原告は、福祉事務所長が本件保護変更決定をするにあたつて原告の補食費を全く認めなかつたのは違法であると主張し、本件における立証の努力の相当量をこの補食費の必要性に置いているので、さらにこの点についても判断を加えておく。」として、判断を附加したが、その際は、判示のごとく双方当事者が補食費の必要性につき相当量の主張・立証を割き、当事者としてこの点に関する裁判所の判断を求めていたことはもとより、裁判所がこの点に判断を加えるであろうとの十分な予測ももちえた(さればこそ一層の主張・立証努力を注げた)状況にあつたのである(しかも、この点からしても本件保護変更決定は違法であるとして、この判断は、判決の結論に結び付けられた)。

〔図表Ⅰ〕 控訴審の訴訟経過

期日 年月日 控訴人(国)側

被控訴人(住民)側

第一回49.7.3控訴状および第一準備書面陳述

・訴の利益論

・統治行為論

・処分適法・合意論

控訴棄却申立および第一準備書面陳述

・上記書面への反論(一部)

第二回49.9.9第二書面陳述

・保安林制度論(原告適格・代替施設論)

第二、第三書面陳述

・被控訴人の住所一覧(裁判長の求釈明への回答)

・控訴人第一、第二書面に対する釈明要求

第三回49.12.17第三書面および釈明書陳述

・憲法九条・自衛力論

第四、第五、第六書面陳述

・控訴人第一書面への反論(違憲審査論・統治行為論)

・砂川判決等(統治行為判決)論

・一審判決批判

・控訴人第二書面への反論(保安林制度論)

・自衛隊違憲論の法的構成、「軍」または「戦力」の概念について(裁判長の求釈明に対する回答)

第四回50.2.21 第四書面陳述

・訴の利益論(保安林の保護法益・森林法二六条の「公益」論)

第七、第八書面陳述

・訴の利益論補論

・自衛隊実態審理の必要性

・自衛隊違憲論補充(自衛隊の反民主主義・反人権的性格)

・控訴人第三書面への釈明要求

第五回50.5.16 第五、第六書面陳述

・第三書面についての補足説明(裁判長および被控訴人の求釈明に対する回答)

・代替施設論(富士戸一号ダム論、砂防ダム論)

第九、第一〇書面陳述

・訴の利益論(保安林機能論など)

・控訴人第三書面への反論(自衛力合憲論批判、砂川判決論)

第六回30.7.24 第七書面陳述

・本件保安林による灌漑用水等の受益農地等の所在位置など(裁判長の求釈明への回答)

書証(原告適格関係)提出

第一一書面陳述

・代替施設論(富士戸一号ダムの安全性など)

書証(代替施設関係)提出

第七回50.10.3 第八書面陳述

・代替施設論(富士戸一号ダム論、砂防ダム論、台風六号の被害論)

書証提出・検証・証人申請(代替施設関係)

第一二書面陳述

・自衛隊の違憲性(対米関係、対外進攻能力論)

書証提出、文書取寄申立(自衛隊実態関係)

第八回50.12.4 第九、第一〇書面陳述

・台風六号被害論の詳細

・控訴人主張全般の要約(第一〇書面)

書証提出(原告適格・代替施設関係)

第一三、第一四、第一五書面陳述

・自衛隊の軍隊性、攻撃性、反国民性

・平和的生存権論、憲法九条論補充

(立法者意思論、九条の現実性)

書証提出、検証、証人申請(自衛隊実態関係)

第九回51.3.12 被控訴人の求釈明に対する回答、ただし一部は回答保留(次回に釈明すると答弁)

第一六、第一七書面陳述

・代替施設論(台風六号の被害論)など

・被控訴人主張全般の要約(第一七書面)

控訴人第九書面に対する求釈明

〔図表Ⅱ〕  裁判長らの発言経過(法廷での録音による要旨)

期日  年月日                     発言の内容

第一回49.7.3(控訴人国側に対し)

① 砂防ダムはたんなる砂防施設として主張するのか、洪水調節施設でもあると主張するのか。

② 保安林解除地域の雨水の流路順、その影響範囲を特定せよ。

③ 自衛隊違憲の主張が行訴法一〇条に違反するという反論(第一準備書面)の趣旨を明確にせよ。

(被控訴人住民側に対し)

① 被控訴人の氏名、住所(地番まで)を明確にせよ。

② 被控訴人のうち農業用水関係者については利用農地の所在、洪水経験者についてはその日時・範囲・程度等を主張せよ。

③ 被控訴人のうち、事前手続で異議意見書を提出した者を特定せよ。

④ 解除処分が直接憲法九条に違反し無効であるとの主張は、自衛隊違憲ゆえに解除処分が森林法二六条の「公益性」を欠くとの主張と別個独立の主張か。

⑤ 自衛隊違憲の主張は、憲法九条違反の主張に尽きると理解してよいか。(双方に対し)

① 「軍」または「戦力」について、それぞれ理解する一般的概念を、参考までに主張せよ。

第二回49.9.9(控訴人国側に対して)

① 代替施設について具体的に主張する意思があるか。

② 雨水の流路順についても、さらに意識的に主張せよ。

③ 自衛隊違憲の主張が行訴法一〇条に反するというのは、この主張は跡地利用にかかわるものだから、行訴法一〇条の要件に該当しないという趣旨か。

④ 「公益性」が問題になるとすれば、保安林解除、伐採、あと地利用のどの段階までなのか。かりに、あと地利用が森林法二六条二項の「公益性」と関係があるとすれば、自衛隊の問題に入らぬとはいえないのではないか。

第三回49.12.17(控訴人国側に対し)

① 「軍」または「戦力」についての求釈明は、一応参考のために聞くのだから、控訴人がこれ(第三書面)で尽くしているというなら、それでよい。憲法解釈は裁判所の専権事項であり、裁判所としては、憲法九条にいう「軍隊」または「戦力」の意義について双方に釈明を求めるつもりはなかつた。

② 控訴人は代替施設について更に具体的に主張するつもりか。

(被控訴人住民側に対し)

① 自衛隊違憲の主張は、自衛隊が憲法九条二項の「軍隊」に該当するとの主張のほか、同条をふくむ憲法の平和主義原理に反するという主張を含むか。

第四回50.2.21(控訴人国側に対し)

① 本件保安林に関係する「流域」には、富士戸川本、支流をふくむのか。

② 本件保安林の水源かん養の対象地は、富士戸川の下流全域に及ぶか。

② 本件保安林の指定に、目的地域のようなものはあるか。

④ 自衛隊は装備水準等が「戦力」に達していないというのか、自衛の目的を有するから「戦力」に該らぬというのか。

訴訟の進行とのかかわりもあるので、釈明できる点はどんどん釈明してほしい。

第五回50.5.16(控訴人国側に対し)

① 第六書面(代替施設論)の主張は新たな資料によるのか。そうであれば、資料をも書証として出してほしい。

② 同書面にいう「富士戸川の流水に依存する農地にかんがい用水を確保するため、対象農地一八九ha……」とあるが、その対象農地を特定せよ。

③ 同じく「富士戸川の流水に依存する住民に飲料水を確保するため、対象戸数六四戸に対し……」とあるが、その対象戸数を特定せよ。

④ 馬追川の排水機の能力は毎秒どの位か。タンザン川、伊坂川、加賀川などの所在を明らかにせよ。

⑤ 第五書面(自衛力論)の中にいう「実力」には、「戦力」も含まれると解するが、よいか。

⑥ 交戦権の具体例を学説をふまえて釈明せよ。

第六回50.7.24(控訴人国側に対し)

① 本件保安林から出る水の流路と馬追山々麗の山根川とは関係があるか。

② 「日本気象協会道本部編・百年確率等雨量線図」を書証として提出せよ。執行停止事件では出されている。

③ 長沼観測所の雨量資料を提出するつもりがあるか。

④ 富士戸一号ダムへのピーク流入量の計算式とその根拠を示せ(山田裁判官)

(双方に対し)

① 日雨量が何ミリまでならダムが安全(危険)だという計算は可能か。

第七回50.10.3(控訴人国側に対し)

① 昭和四年、七年、一一年、二二年に長沼町へ洪水があつたか。

(双方に対し)

① 次回までに、主張・立証を整理し、洩れがあれば提出してほしい。

(被控訴人住民側に対し)

① 被控訴人のなかで今日まで委任状を提出していない者で、訴取下げ可能な者があれば、整理してほしい。

第八回50.12.4(控訴人国側に対し)

① 木村博士の貯留関数法に関する資料は、書証として早く提出せよ。

② 南長沼観測所はどこに位置するか。長沼測侯所とはちがうか。

③ 第一〇準備書面で、控訴人の主張は尽きているか。

(被控訴人住民側に対し)

① 自衛隊が違憲の軍隊であるからという主張のほかに、ミサイル基地が住民の平和的生存権を脅かすという主張を、非「公益」性の中味として追加するのか。

第九回51.3.12(被控訴人住民側に対し)

① 第一六書面にいう「冠水」と「浸水」とはどう違うか。

② 本件保安林の理水の利益を受ける地域を個別・具体的に特定できるか。

(控訴人国側に対し)

① 被控訴人の右書面等に反論することがあるか。

第三に、とくに見逃すことができないのは、原判決が本案前の抗弁に対する判断のなかで跡地利用は本件保安林指定解除処分と法的には因果関係が認められず、跡地利用=自衛隊ミサイル基地の設営から生ずる不利益は本件解除処分の取消しを求める法律上の利益に含めることができないとして、自衛隊ミサイル基地の設営にかかわる法的問題を検討の埓外に追いやつておきながら、こともあろうに附加見解という形において、自らはほしいままに「自衛隊等違憲の主張について」判断を加え、これを公示したという点である。指定解除後の跡地が自衛隊ミサイル基地の設営(という「公益」目的)に利用されることを理由としてはじめて発令された本件保安林指定解除処分を、まさにその自衛隊ミサイル基地の設置運営から生ずるさまざまな事実上、法律上の不利益ゆえに争おうとした上告人らに対して、伐採以後の跡地利用は解除処分と法的には関連性なしとしてその原告適格すらも否定し、本案=自衛隊の憲法適否等の問題には立入れないとしておきながら、裁判所自身は「(原審)と異なる結論を有するので」というだけの理由で恬然として右本案の問題につき一方的に「見解」を判示するというのでは、これを果して近代国家の民主主義司法ということができるだろうか。ましていわんや、かかる一方的な判示に対して上告人ら当事者からは適法な不服申立の術も与えられておらぬにおいておやである。

第四に、原判決の附加見解の内容そのものの特異性、問題性が挙げられなければならない。その詳細は後述に譲るが、原判決を一瞥しただけでも、その二重構造的な統治行為論、憲法九条二項は一義的に明確でなく、その法意を確定することができないとする憲法解釈(不能)論をはじめとして、その内容の特異性、および一方で統治事項であつても関係憲法条規が一義的に明確な場合は司法審査が可能だとしながら、他方で自衛隊が一義的に明白に違憲(侵略的)であるか否かは、その判断の高度の専門性・技術性・政治性ゆえに判定不可能だとするなどの自己矛盾性はおのずと明らかであろう。

三、原判決が附加見解を付したことの政策的意図性

――違憲審査回避の姿勢とその意図性――

それではなぜ原審が上級審として判例を統一するというような立場にもないのに、またその審理指揮からして何びとにも裁判所は本案前の問題に関心を集中させていると信じさせ、事実本案の主張立証を中途でうち切るまでしながらそして他にも数々の無理を重ねながら、あえて特異な附加見解を披瀝したのか、それが問題である。

(一) もともと、この種の附加見解は、判決の内容や結論とは論理必然の関係をもたず、したがつて必ずなにがしかの法論理外の政策的意図にもとづいてうち出されるのが常である。そしてかかる司法政策的意図ないし目的は、ほかならぬ附加見解そのものの内容に端的に表われるのを、また常とするが、本件の場合もその例外ではない。すなわち、原判決の附加見解の動機は、既引のように、双方当事者が最大の争点として裁判所の判断を求めてきた自衛隊等の憲法適合性について、「原審もこの点について判断をなしているところ、当裁判所はこれと異なる結論を有するので」というにあるが、そこにいう「当裁判所の結論」とは、附加見解の「帰結」にまとめられているように「自衛隊の存在等が憲法第九条に違反するか否かの問題は、統治行為に関する判断であり、国会及び内閣の政治行為として窮極的には国民全体の政治的批判に委ねられるべきものであり、これを裁判所が判断すべきものではない」というものである。何のことはない、原審裁判所は、わざわざ判決の本来の構成からすれば余計な附加見解の形をとつてまで、自衛隊等の憲法適合性の争点については「裁判所が判断すべきものではない」という判断をあえて示したのであり、しかも当事者(上告人ら)が最も望まない判断を強いて与えたわけである。かくして当事者が「裁判所に判断を求め」たがゆえに与えたというには、余りにも原審の審理手続の経過もまた原審の判断内容もそこから遠く隔りすぎて空々しいとすれば、原審がかかる附加見解をあえてした主要な動機は、第一審判決が原審と異つて自衛隊の違憲審査を積極的に行ない、しかも違憲判断をうち出したものであつたから、これに否定的評価を加えておきたいというところにあり、その(司法)政策的意図は、第一審判決が社会に与えてきた社会的、政治的影響を一日も早く払拭しようとするにあつたとみるほかないであろう。

(二) このような原審裁判所の自衛隊の憲法適合性に関する執拗なまでの回避の姿勢は、もとより附加見解の部分に限つてあらわれているに止まらず、判決全体を通じてそのすみずみまで表われているということができる(なんとなれば、一個の判決のある部分で憲法判断回避の司法消極主義が採られ、他の箇所ではこれと逆に司法積極主義の姿勢がとられるがごときことは、あり得べからざることだからである)。原判決がその本来の判決部分で、遮二無二上告人らに原告適格、訴えの利益なしとして本案前で訴えを却下したのも、まさに附加見解で示された原審の本案=憲法問題回避の根本姿勢のあらわれというべく、その意味では原審のかかる態度は判決全体を通じて見事に一貫しているということができよう。いいかえれば、原審はまず被上告人の本案前の抗弁を容れることによつて本案判断(違憲審査)を求める上告人らの要請をしりぞけ、さらにその上で念入りにも本案の争点そのものについても司法審査が及びえぬ所以を説示したわけで、これはまことに徹底した違憲審査回避の姿勢、“逃げ”(といつて悪けれだ“封じこめ”)の態度という外はない。

(三) のみならず、一件記録(とくに前掲図表に示された訴訟経過)に徴すれば、原審裁判所はかような違憲審査回避の姿勢を当初から方針として掲げ、これに沿つて控訴審々理を遮二無二終結まで運んでいつたと認められるふしが多分にある。

それは、第一に、第一回口頭弁論期日における小河裁判長の双方当事者に対する求釈明の内容――それはしばしば裁判所側の事案についての関心の所在を示すものであるが――が、原判決の法的構成や内容と驚くほど照応しているという事実から推認される。

第二には、第一回から第九回(最終)期日までの各弁論期日における裁判長らの求釈明や発言がきわめて活発になされ、しかもきわめて傾向的になされた――ほとんどが原告適格や代替施設など本案前の問題に集中し、しかも回を逐うて露骨になる、本案の自衛隊憲法適合性の問題については、たんに主張整理のための発問のみ――という事実が挙げられる。たとえば、前者についてその顕著なものを指摘すれば、「代替施設について具体的に主張する意思があるか。」「雨水の流路順についても、さらに意識的に主張せよ。」(第二回期日)、「『日本気象協会道本部編・百年確率等雨量線図』を書証として提出せよ。執行停止事件では出されている。」「長沼観測所の雨量資料を提出するつもりがあるか。」(第六回期日)のごときが、また後者については、「自衛隊違憲の主張は、憲法九条違反の主張に尽きると理解してよいか。」「『軍』または『戦力』について、それぞれ理解する一般的概念を参考までに主張せよ。」(第一回期日)「『軍』または『戦力』についての求釈明は一応参考のために聞くのだから、控訴人がこれ(第三書面)で尽くしているというのならそれでよい。憲法解釈は裁判所の専権事項であり裁判所としては、憲法九条にいう『軍隊』または『戦力』の意義について双方に釈明を求めるつもりはなかつた。」(第三回期日)などが挙げられる(以上前掲図表参照)。

第三には、世に知られた第九回期日における“突然の結審”が挙げられる。もともと原審が当初から各期日ごとに次回のみならず次々回期日までを「指定」して訴訟の進行を急ごうとしてきたことは原審の手続調書を一見して明らかな事実であるが、昭和五〇年一二月四日の第八回期日に裁判所および双方当事者の三者間で確と合意の上指定された第九、第一〇回期日を、原審は何の前触れもなく突如として変更し、第九回期日で結審を宣してしまつたのである。これがいかに唐突であり、というより以上に訴訟関係者間の信義を裏切るものであつたかは、小河裁判長らへの忌避申立事件について昭和五一年五月二〇日に同じ札幌高裁(第四部)から出された決定によつても優に窺い知れるところである。

四、原判決の根本的誤り

(一) これらの事実のほかにも、原審の姿勢ないし方針を推認させる徴憑は多々あるが、右の顕著な徴憑を顧みただけでも、原審裁判所が当初から原判決にみられるような徹底した違憲審査回避の姿勢をかため、原判決のような「判決」を目指して強引に審理をつき進めたことはおよそ推察されるであろう。

もとより、政治(行政)の権力に従順な姿勢は国民(人民)の人権擁護に冷淡な態度と表裏の関連にあるから、「行政府との対立を極力避けようとし」た原審が、上告人ら住民(国民)の生命・身体・財産をはじめもろもろの人権を尊重し擁護する姿勢に欠けたのは必然不可避のことであつたと思われるし(原告適格の不当に狭く厳しい認定やダムの安全性を蓋然的で足るとする不当に緩やかな態度、平和的生存権や憲法九条の人権保障機能についての消極姿勢、台風六号の被害に関する形式的で冷淡な取扱いなど)、また遮二無二早期結審を急いだために、手続上のミスや失態はいうに及ばず、判決内容の上でも審理不尽の粗略さや理由そご、さらには法令違背など数々の欠陥を残すことになつたのはけだし当然のことであつた。これらの諸点については後に各論等で詳述するが、しかし、これらもろもろの瑕疵は、いづれも原審が司法府に課せられた重要な職責を自覚せず、不明にも既成の政治的現実に圧伏させられて違憲審査を回避しようとしたことに発するものであり、したがつて原判決の最大にして根本的な誤りは、原審が憲法八一条により命ぜられた違憲審査権の厳正な行使をためらい、結局これを回避したことにあるといわなければならない。

(二) 憲法八一条が司法裁判所に付託した違憲審査の権限と職責が、戦後のわが国の民主主義の確立と憲法政治の実現にとつて不可欠の重要性をもつ所以については、すでに上告人らが原審でも指摘し、また本書面でも後に詳述するので、ここでは繰返さぬこととするが、かつて岸盛一判事らがこの点に関して述べられた見識、すなわち「従来は裁判所はただ国会が作つた法律を忠実に守つておればそれで事は足りた……のですが、新憲法のもとでは、その国会の制定法が憲法に反するかどうかという審査権を与えられたわけです。裁判所がこの権限を行使できるということによつて裁判官は憲法の保障する国民の権利・自由を守ることができることになつたのですね。つまり、裁判所は国民をして法を守らせるばかりでなく、国家をして法を守らせるという重要な任務をも負うことになつた。民主政治下における裁判所は民主政治の支柱であるといわれるのも、この権限があるからこそだと思うのです。」というかつての岸盛一判事の意見、「そういう点から考えまして、今後の新憲法下の裁判官は法律を自動機械的に……単に論理的に解釈することだけに甘んずることができなくなつている。そして新憲法の根本精神はどこにあるかヒューマニズムがどういうものであるかというようなことについて、広い視野と高い識見とをもつて本当の判断をする(こと)がいま裁判官に要求されていると思う」という横川敏雄判事の所信、さらには「もちろん、われわれもステーツマン・シップに基づいてやらねばならないし、また慎重にやらねばならないと思つていますけれども、それは決して英雄気取とか決死の覚悟とかそれ程はり切る必要はないのじやないか……、たんたんとして法の明文の命ずるところに従つてゆけばよい。それは豊かなヒューマニズムで基本的人権をどう理解するかによつて、おのずからそこに内容が盛られてくるのであつて、そう悲壮感をもつてやる必要のないように私は思つている」と述べる浅沼武判事の述懐は、それぞれながらまことに的確に違憲審査制、ひいては今日の司法の本質意義をついており、傾聴に値する(「座談会・裁判官の特殊な地位とは何か」<法律時報臨時増刊「憲法と裁判官」所収>一七三〜四頁)。もちろん、この種の重要な訴訟を担当し、決断を迫られたさいの裁判官の苦悩や困難は、並み大抵のものではないであろう。国政の行方はもとより国際関係にも重大な影響を及ぼしかねない大事件の裁判を委ねられた担当者として、審理の方針をどう立てるか最終の決断をどうするかをめぐつて、測り知れぬほどの深刻な苦悩に見舞われなかつたとすれば、その方が不思議なくらいである。

しかし、問題はこのような苦悩を“生身の一個人”として悩み抜きながらも、その末に一人の裁判官としてどのようにそれを突き抜け、決断を固めるかにある。がしかし、裁判官としての立場と職責は憲法にも明記されているように「その良心に従い独立して職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される。」(七六条三項)のであり、かつ「裁判所は一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する」(八一条)のである。この権限を行使するため、たとえ巌のごとき重みを一身に受けようとも、かれが裁判官である限り、その立場と職責から逃れることは許されないし、またそこにこそ、他のあらゆる職業や地位にみられない裁判官にのみ属する使命と栄誉があるはずである。このような見地に立つてみるとき、本件原審裁判官らが、原判決で示した選択はとるべからざるものであつたこと、おのずと明白であり、しかもその選択の結果はわが行政府を喜ばせ安堵させると同時に、それ以上にわが国民の司法府に対する信頼を傷け、憲法政治の将来に暗雲をなげかけたこと否みがたいといわざるをえない。かつて長谷川成二判事は、「違憲判決が実際に現われる場合には、国や自治体の不当な権力の行使に対して人権を守るという面で現われていると思います。その結果これは立法権に抵触するばかりでなく、すでに実際に行なわれている政治、行政面にも影響してくる。更に国際問題にまで発展する可能性もある。これは違憲判決の本質的なものだと思うのです。

したがつて、法の秩序とか政治経済の安定とか、そういう面からの非難攻撃というものは当然受けなければならぬわけだと思います。そういう意味で、違憲を打ち出す以上はこういうものに対して右顧左眄することなくして勇気をもつてやらなければならぬ。」と述べられたが、(前掲「座談会」)、このような真の「勇気」を欠き、既成の政治の重みに屈して司法審査制の本義を貫きえなかつたところに、原判決の根本的な誤りが存するといわなければならない。この誤りをただすことが貴裁判所に対する上告人ら(国民)の期待である。

第二部 各論

第一点 原告適格に関する法令違背

一、原判決には、原告適格に関し、左のとおり審理不尽の結果、行訴法九条の適用を誤つた違法があり、判決に影響を及ぼすこと明らかであるので破棄を免れない。

(一) 原判決は、本件訴訟の原告適格の有無につき「馬追運河排水機場流域」内に居住するか否かを基準として(なお、その他に農業用水及び飲料水不足の影響範囲も基準としているが、その範囲はいずれも右流域の範囲内に包含されているので結局、右流域が原告適格の有無を区画する基準となつている。)、上告人中、別紙目録(一)<省略>に記載の松木茂治ら三一名は、右流域内に居住する者ではないから本件解除処分を争う法律上の利益を有しないとして、同人らの訴えをいずれも不適法却下している。

(二) ところで、原判決は、他方では本件訴訟の原告適格の有無を判断するにあたつて、いわばその理論的前提として次のとおりの論旨を展開している。すなわち、「行訴法第九条にいう法律上の利益は、単なる実体法上の権利ないし保護利益にとどまらず、行政処分が法の趣旨に基づいてなされた際、法目的達成のために特にその実現が所期されたと認め得る事実上の利益も含み得るものと解すべく、したがつて、また、その利益を受けている者であれば、必ずしも処分当事者に限らず、第三者であつても、その処分を争い得る余地があるものと解するのが相当である。」とまず一般論を宣明し、次いで本件訴訟における法律上の利益について、本件保安林が水源かん養保安林であるところから、農業用水確保および飲料水確保とならんで「洪水の予防」を「その実現を所期されていた種類の利益であると解することができる。」とし、さらにその利益の及ぶ範囲を「その特定の河川流域との自然的、地理的条件によつて、当該保安林の有する理水機能がまず直接重要に作用する一定範囲の地域、換言すれば、主として当該保安株の伐採による理水機能の低下により直接に影響を被る一定範囲の地域」としている。

したがつて、この論旨を一貫させるならば、本件訴訟の原告適格の有無を判断するにあたつては、その判断過程において、右にいう「当該保安林の伐採による理水機能の低下により直接に影響を被る一定範囲の地域」を確定することが不可欠であつた。

(三) しかるに、原判決は、いきなり「馬追運河排水機場流域」をもちだして、それが「水害防止必要地域として、直接の影響の及ぶ範囲として考慮されたものと解するのが相当である。」と述べて、右「排水機場流域」が恰も前述の「当該保安林の伐採による理水機能の低下により直接に影響を被る一定範囲の地域」とその範囲において一致しているかのように断定している。

しかし、この断定には訴訟当事者らをして納得させるに足る合理的な理由が付されていない。原判決は、一応「本件保安林部分からの雨水流出経路、地形等上段認定の諸事実からすれば、富士戸川本、支流から東四線排水路、零号排水路を経由して馬追運河に至る右流域は、本件保安林部分からの流水による直接的水害のおそれが認められ、その水害対策が講ぜられるべき地帯であるところ」「馬追運河排水機場流域は、前示各河川を含み、しかも、右排水機場は、右各河川による水害防止対策として、流水排出のために設置された設備であるところ、右排水機場流域は、その機械排水能力の及ぶ範囲として地形上予定されているものであることが認められるので、本件馬追山保安林の指定に際し、本件保安林部分に関しては、右排水機場流域が水害防止必要地域として、直接の影響の及ぶ範囲として考慮されたものと解するのが相当である。」などと述べてはいるが、これが前述の「断定」の合理的な理由となり得ないことは明らかである。なんとなれば、乙第一九号証によると、もともと右排水機場は、本件保安林の伐採による理水機能の低下により惹起される洪水の被害を防水するために設置されたものではなくて、馬追運河流域が頻繁に洪水に見舞われとくに昭和三七年、四〇年、四一年には甚大な被害を蒙つたところから、その防止措置として、本件保安林の指定解除が問題になる以前の昭和四〇年に着工し、同四三年に完成しているのである。また、排水機の設置にあたつて既往洪水の水量と被害の実態および経済効果等を勘案してその規模を決定しているのである。

従つて、ここで明らかなことは、右排水機場流域なるものは、本件保安林の指定解除がなされることなく、従つて伐採もなされないとの条件下において、なお発生すると思われる洪水の被害に対処すべく、従来の洪水の被害と同程度の被害を防止するのに必要な限度の機械排水能力の及ぶ範囲にすぎないということである。

本件保安林の伐採により、理水機能が低下することは不可避であり、その結果、馬追運河流域における洪水の被害は、本件保安林の伐採前と比較して、より広範囲に及ぶであろうことは安易に推測され得る。そうであるとすれば、右排水機場流域は「保安林の伐採による理水機能の低下により直接に影響を被る一定範囲の地域」に内包されると云い得ても従つて、その限りでは、右排水機場流域が「水害防止必要地域」であり、「直接の影響の及ぶ範囲」であると云い得ても、だからといつて、逆に「保安林の伐採による理水機能の低下により直接に影響を被る一定範囲の地域」が右排水機場流域に限られる、換言すれば排水機場流域の範囲外がすべて伐採による直接の影響を被る地域に該当しないということには決してならないのである。

(四) よつて、原判決には審理不尽の結果行訴訟法九条の適用を誤つた違法があり破棄を免れない。

二、原判決には、左のとおり行訴法九条の解釈を誤つた違法があり、判決に影響を及ぼすこと明らかなので破棄を免れない。

(一) 上告人らは、第一審および控訴審を通じ、本件訴訟の原告適格につき、「保安林制度は、本来、その周辺地域の住民やそこを通行する国民の生命、財産、安全、健康等を保護するための制度」(第一審原告最終準備書面第二章第一節第二、なお控訴審における口頭弁論再開申請・補充書二の第三項も参照されたい。)であると、保安林の伐採に伴う洪水による被害発生地域に「居住」する者ばかりでなく、広く右地域に勤務場所を有する者はもとより通行する者まで含め、その者の生活上の利益が具体的に影響を蒙る者は原告適格を有する旨主張してきた。

(二) これに対し、原判決は、馬追運河排水機場流域に「居住」する者についてのみ原告適格を認め、右流域以外に居住する者についてはすべて原告適格を否定した。

(三) 右流域内には、町役場、小・中・高校、郵便局、消防署、警察署その他の官公署、寺社、農協、銀行、その他長沼町の中心的商店街、国鉄バス・ターミナルなどが存在し、また、他市町村と長沼町中心部を結ぶ、長沼町にとつては最も主要な幹線道路である道々札夕線が存在する。そして、別紙目録(一)に記載の上告人らを含め長沼町民は右流域内に通勤、通学場所を有するか、あるいは、所用で右流域内に頻繁に出かけてくるのが実情である。そうであれば、長沼町民であれば誰れしもが、右流域内において勤務している際に、あるいは所用で出かけてきている際に、右流域が洪水に見舞われる事態に遭遇する機会を多分に有すると云つて差し支えなく、その場合には、その者の生命、身体の安全が侵害されることは、右流域内に居住する者と全く同一である。しかも、右流域内に居住していない者の生命、身体の安全についても、右流域内に居住している者の生命、身体の安全と全く同等に尊重されなければならないことは当然である。

(四) そうであるならば、原判決が何ら首肯し得る理由を付することなく、原告適格の判断を「民住地域」によつて区々にしたことは、明らかに行訴法九条の解釈を誤つたものであり破棄を免れない。

(五) さらに、原判決は、「生命身体の安全」についてのみ判示し、洪水に伴うその他の生活上の利益に具体的な影響を蒙る場合(たとえば、洪水により通学、通勤が不可能となる場合など)については、それが原告適格の有無の判断の基礎となり得る生活上の利益、すなわち、行訴法九条にいう「法律上の利益」に該らないものと黙示的に判断しているが、これは行訴法九条の解釈を誤つたものであり、この点においても原判決は破棄を免れない。

(別紙)目録(一)<省略>

第二点 代替施設

一、法令違背

原判決は、訴の利益の存否に関する判断基準につき誤つた判断をした結果、行訴法九条の適用を誤り、右は判決に影響を及ぼすこと明らかである。

(一) 原判決の論理

原判決は、本件富士戸一号堰堤の洪水調節能力の検討方法において

「森林の伐採による理水機能の低下によつて増加する洪水量推定は、その地域における降雨量の多寡、その集中度、あるいは流出率等の予測困難な与件因子の相関関係のもとにおいてなされるを得ないから、ある程度の蓋然性をもつて満足せざるを得ないものというべく、裁判上この種の問題については、水文統計資料に基づき、社会通念上一応の合理性の認められる方法をもつて検討すれば足りるものと解すべきである。」とし、流域雨量について被上告人の推定した151.9ミリメートルを「一応その合理性があるものと認め」て、富士戸一号堰堤は、「洪水調節能力を発揮し得るものであるから、富士戸一号堰堤の越流による決壊の蓋然性は無視し得る程度に低いものとみて誤りないものというべきである。しかして、およそ代替性が問題とされる以上は、代替物が代替されるものと能力的にまつたく同一であるということはあり得ないはずであるから、富士戸一号堰堤が述べたとおり、予測され得る範囲において、社会通念上十分な洪水調節の機能を有するものと認め得られる限り、それは、代替施設として欠けるところはないものというべきである。」と結論している。

原判決が右の判断基準を設定したのは、結局のところ、洪水調節能力を検討するにあたつては、いくつかの推定を前提とせざるを得ないが、一つの推定にあたつても、幾とおりもの手法が考えられ、それぞれそれなりの一応の合理性を有している。裁判において、そのうちどれを採用するのが適切かは「社会通念上一応の合理性」をもつて、検討すれば足りるとする以外にない。出来たダムは完全に代替することはあり得ないから、社会通念上十分に代替すると認められる限りこれは完全であると結論すべきであるというにある。

その根底には、被上告人の主張に対し上告人はその推定・手法・前提の誤りを指摘し、その指摘が決定的に誤りであるとは断定し難いし、むしろその主張は正しく且つ適切であることは後述するとおりであるが、原審裁判所は、これを少なくとも決定的に誤りであるとは考え難いが故であつたことは推測に難くない。もし一方が正しく他方が誤りと断定出来るなら敢えて右の如き基準は不必要だからである。しかしながら、訴の利益の存否の判断において、「一応の合理性」とか危険の「蓋然性を無視し得る程度」で「予測され得る範囲において社会通念上十分」であればよいと強いて判断することが正しいか、又必要であるのか検討する必要がある。

(二) 原判決の誤り

(1) 訴の利益を認定する際の基本的態度

憲法三二条は、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」と規定し、誰でも平等に裁判請求権を有することを明らかにし、正式な提訴であれば、裁判所は裁判を拒んだり怠つたりできないことを意味している。(司法拒絶の禁止)。ところで訴の利益の有無の判断は、まさにかかる憲法上の権利を認めるか否かにかかり、不当にこれを制限するならば右にいう司法拒絶の禁止の問題に連なるが故にかかることのないよう慎重な態度が要求されるのである。現在抗告訴訟における訴の利益について、いわゆる厳格な反射的利益論を排して事実上の利益を認め広く裁判の窓を開こうとする判例の傾向はまさにこのことに深く留意していることと思われる。

この点で原判決は、第四、当事者適格の項において「行政処分取消訴訟における法律上の利益」を判断するに際し、右憲法の趣旨をふまえ、行政処分の当事者に限らずに第三者で、事実上の利益を有する者にまで訴の利益を認めて広く裁判の窓を開いたのはまさに正しい態度であつた。ところが富士戸一号堰堤の安全性の判断において、強いてこれを断定することによつて、上告人らの訴権を奪つたのは、右の立場を放棄し、誠に予盾した態度というべく、この場合にも、右正しい態度は貫かれるべきである。

(2) 原判決は、自然現象に対する科学技術上の解決の問題と裁判上の解決の問題(特に訴の利益の有無の判断の問題)とを混同した誤りがある。

自然現象は一般的には未知の分野が多く存在する。とりわけダム設計の際には右に加え用いられる基礎データの不充分性、将来の予測の困難性、は原判決も指摘するとおり数多く存在する。にもかかわらず、工事の実際においては、その必要性から、不充分ではあつても存在する限りでの、データを前提とし予測の困難性も限界は認めながら一応の合理性で満足して工事をせざるを得ない。従つて科学的に厳密に検討すれば、幾多の疑問や、問題点を含んでいることはもともと否定し得ない性格のものである。従つて科学者や技術者は、原判決の判示の各所に出て来る如き完全性に対する割り切つた断定は決してせず、又そのような勇気を持ち合わせていない。

しかるが故に技術の実務においては、右の未知の分野、予測の限界を考慮して、絶えずそのデータ、数値、手法において安全側にこれをとるようにしている(設計基準)のはこのためである。

ところで、右のように、科学技術上、未知な点および予測困難が一般的に存するうえに、本件のように被上告人の主張するデータ、数値自体が二転三転し、重大な問題が幾多指摘されている場合に、工事・設計の際に要求されるような必要性もない裁判上(訴の利益判断)において、十分な説明もなく且つ後述のような幾多の審理不尽をあえて行つてまで強いて一手法のみが合理性ありと断定する必要は豪も存しない。この場合、純粋な科学技術上の疑問・問題点は、即裁判上においても、疑問は疑問、問題は、問題として残して置くことが正しい態度というべきである。

原判決は、自然現象を科学的判断のほかに人為的な「社会通念」なる概念をもつてこれを割り切ろうとする態度であるが、もともと自然現象の解明においては「社会通念」なる概念は入れる余地のない異質のものである。そうして本案の判断(例えば責任の有無、損害の負担等)においては、紛争の解決のためには、一定の「割り切り」は必要であろう。しかしながら訴の利益の判断は、紛争そのものの解決ではなく、その前提にすぎないのであるから、原判決のように異質の概念を用いて、強いて割り切らなければならない性質のものではない。むしろ僅少な疑問でも全く否定し得ない場合は積極的に訴の利益を肯定すべきものである。従つて「一応の合理性」とか「予測し得る範囲においての社会通念上十分」なる基準はむしろ訴の利益を否定する基準ではなく肯定する基準として用いるべきである。この点で原判決は、訴の利益の解決の問題を土木技術上の解決、本案判決での解決の問題と混同した二重の誤りをおかしたというべきである。次の判例は直接には原告適格に関するものであるが前提の訴の利益存否の判断において正しい解釈態度を示したものとして注目すべきである。

○東京地裁昭和四五・一〇・一四決定(判例時報第六〇七号一八頁、もつとも本案判決では異る結論とはなつているが)

歩道橋架設工事をしたからといつて法律上の不利益はないとの主張に対し、「申請人らは本件横断歩道橋が設置される都道一四六号線の近隣に居住する国立市の住民であつて、本件横断歩道橋の設置により設置箇所において有していた従来の方法による道路通行が妨害されるばかりでなく、自動車の交通量と速度の増加に伴う排気ガスの増大によつて、健康の損傷、風致・美観の破壊等の損害を被り、環境権が侵害されるにいたるというのであるから、その主張の限りにおいては、一応(傍点筆者)申請人適格において欠けるところはないというべきである。」と判示している。この判決は利益侵害の危険性は「当事者の主張だけで」「一応」に判断すればよく、具体的検討は不要とし、まして、原判決のように逆に「一応の合理性」とか、「社会通念上十分」なる基準で、無理に安全性を肯定する立場を否定しているものと考えられる。更に、○東京高裁昭和四七・九・二七判決(判例時報六八〇号二〇頁)

原子炉設置を目的とする建設物の確認処分によつて、直接に権利または利益を侵害されないから不服申立の利益がないとの主張に対し、

原子炉の「操業が開始された場合、被控訴人らが危惧する災害が発生する蓋然性についてはともかく、(傍点筆者)万一災害が発生したならば、附近住民の損害が僅少ですまない場合のあることは常識に属する。したがつて被控訴人らが附近住民である限り、確認処分によつて間接的な権利または利益の侵害をうけるといつてよいから、審査請求をする法律上の利益を有すると解すべきであつて控訴人の主張は採用しがたい。」と判示して、災害発生(原子炉の安全性)の蓋然性の判断をぬきにして、もつぱら発生した場合の被害の点から訴の利益を肯定している。

次の決定は民訴法三一二条三号の要件の有無に関する決定であるが、同様の考え方に立脚するものとして参考となろう。

○高松高裁昭和五〇・七・一七決定(判例時報七八六号五頁)

原子炉が設置されても、住民の生命、身体及び財産の安全に対する制約は生じないから訴の利益はないとの主張に対し、

「原告適格を認めるための前提である法的に保護された利益が侵害されるか否かは、当事者の主張自体に照らし一般的・抽象的に判断すべきものと解する。」(傍点筆者)「本件原子炉が設置されてその操業が開始された場合には、その安全性が充分であれば格別、仮りに本件原子炉の安全性が充分でなく、万一事故等が発生した場合には、付近住民の生命・身体が侵害されるに至ることは経験則上明らかであるから、本件原子炉の設置場所付近に居住する相手方らには、一応法的(傍点筆者)に保護された利益(生命・健康等)を侵害されるとして、本件許可処分の取消を求める法律上の利益があり、右取消の抗告訴訟を提起する原告適格があるというべきである。」と判示している。

(3) 原判決は訴の利益を誤つて否定した場合の結果の重大性について何ら認識がない。

原判決は「予測され得る範囲において、社会通念上十分な洪水調節機能を有するものと認められる限り、それは代替施設として欠けるところはない」といい、又「決壊の蓋然性は無視し得る程度に低い」という。富士戸一号ダムが完全であると断定した程度は以上の程度である。しかしながら、ここに言う「予測され得る範囲」とか「決壊の蓋然性」というが、如何なる目的でこれを論ずるかによつて、その範囲が当然異つてくるべきものである。この点で次の指摘に注目すべきである。

「もともとどの程度のプロバビリティならよいかということは、目的によつて当然違つてくるわけであつて、例えば人を死刑にするかどうかといつた司法的判断の場合はたとえ僅少でも不明の点があつてはなるまいし、一方人の健康を守るための行政的ないしは政治的措置をとる場合は少しでも疑いがあれば直ちに対策の手を打つ必要があろう。この辺の判断は、あくまでそれを担当する裁判官……の責任において行われるべきであるが……時には科学が隠れ蓑的に使われる傾向すらあつたことは遺憾なことである。」(重松逸造、疫学とは何か判例時報六三五号一〇頁)

原判決は死刑にも等しい人の生命の安全を目的としていることを認識して「蓋然性」を考えたであろうか。科学が隠れ蓑になつてはいないだろうか。

更に、

「科学的に因果関係を推定する場合には、従来の調査あるいは実験による成果は、第一種の過誤(いいすぎをする誤り)のみを重視し、第二種の過誤(見逃しをする誤り)を無視することによつて得られた結論である。」「疑わしい場合は、公衆に対して有利に解釈する」という観点の指摘である。(山本剛夫大阪空港訴訟控訴審判決の評価と展望、法律時報四八巻二号七二頁)

原判決は、まさにこの論理によるものであるが、この論理がいまや公害等において反省されてきていることの指摘なのである。

原判決は「決壊の蓋然性」を無視した過誤の結果の重大性に思いをいたしたのであろうか。本件における訴の具体的利益は、長沼町多数住民の生命、身体、財産である。

しかもダムが一度決壊すれば、その被害の甚大なことは衆知のとおりである。例え裁判上は「一応の合理性」ありとしてダムの完全性を断定し紛争を解決しようとも、客観的に何分の一かの危険性が残る場合そのことこそが、地球より重い生命を押し流すことになるのである。かかる場合裁判所はその責任を果したといいうるであろうか。このような場合こそ「疑わしきは、公衆の利益に」との観点にたつて少くとも訴の利益は認めることこそ裁判所としての職責を果たし国民の信頼を得ることになるであろう。

(註) この際ダムの被害の発生した都度指摘される、針の穴程にも注意を要するとする次の警告に耳を傾ける必要があろう。

(昭和五一年一〇月三〇日北海道新聞夕刊)

アメリカ・アイダホ州のテイートンダムはなぜ決壊したのだろう。わが国から現地に派遣した調査団が、このほどまとめた中間報告書をみても原因はまだ明らかでない。

このダムは百六十五億円をかけて建設されたばかりの多目的ダムで、水をため始めてほぼ満水になつたことし六月に突然決壊、流出した水は洪水のように家や田畑を押しつぶし、数多くの犠牲者を出した。下流の四千世帯に被害を及ぼし、三千億円の損害を与えた、まれにみる大事故である。

ダムは絶対に決壊しないし、決壊させてはならないものだけに、このダムの決壊原因については、わが国ばかりでなく、世界的な関心を集めている。

調査団の報告によれば、地震による地盤のゆるみではなくて内部浸食らしいということがわかつたが、それが設計のミスなのか、施工、管理に欠陥があつたのか、はつきりしない。ダムと両岸の“締め”や基礎岩盤の“固め”に手抜かりがあつたのではないか、といつた疑問も出ている。

人工的につくつたダムが決壊するのだから不可抗力だつたとはいえまい。弁解の余地のない人災とみるのが自然であろう。アメリカ政府も総力をあげて原因の徹底究明に乗り出しているが、ただ、このダムの建設にさいし、環境保護団体を中心に根強い反対運動があつた点も忘れてはならない。

ダムができることで、魚や野生動物が住みにくくなるという理由から訴訟まで起こしている。と同時に一部地質調査員のなかから、ダム地点の地質が軟弱で水漏れの恐れがあるとの指摘もあつた。はじめから問題の多いダムだつたといえよう。

おまけに、テイートンダムは本道の大雪ダムと同じロックフィル式工法を用いている。セメントを固めてつくる重力式やアーチ式と違つて、真ん中に水をしや断する粘土質の層をつくり、その周りに岩石を積み上げるダムで、地盤の軟らかいところに向く。

本道では地盤の固い適地は少なくなつているので、今後のダム建設はロックフィル式が主流になりそうだという。この点からもテイートンダムの決壊は決して他人事ではない。針の穴ほどの油断、そのすき間から漏れる水の力は恐ろしい。

(三) 正しい判断基準は何か

訴訟制度は、国家が行う紛争の公権的解決のための国家制度である。従つて国家がその制度によつて、処理するに適した事件のみを取り上げるべきであるとの要請が生ずるのは当然であろう。この場合何が「処理するに適した事件」とみるか即ち訴の利益存否の判断基準は、結局のところ、国民の訴訟遂行権は、憲法上の権利であることをふまえ、問題となる私人の利益の内容、重大性、範囲の大少、不利益の生ずる危険性の程度と、訴訟遂行権を認めることの国家的不利益、裁判制度運用上の障碍との衡量から判断するのが妥当であろう。ところで本件においては、私人の利益は、生命、身体、財産の安全であつて何ものにもかえ難い重大性を有し、その範囲は長沼町住民全体という広範囲に亘ることは論をまたない。

他方、訴の利益を認めることによる、国家的不利益は、濫訴の防止であるが本件においては何も存在しない。抗告訴訟、或いは公害訴訟においては現在訴の利益を広く認める方向にあることは前述したとおりであるし、むしろ全国民的注目の的となつている憲法問題について判断の対象となつている本件においては、より積極的にこれを取りあげることこそ裁判所の責務である。問題は不利益の生ずる危険性の程度であるが、これの判断は別個独立に論ずべきでなく、その不利益の内容、重大性、範囲等と相関関係において判断すべきものと考える。何となれば、一度その不利益が発生するにおいては補うことの出来ない重大な不利益である場合には、その不利益発生の危険性の程度を判断する場合必然的に慎重を期すべきことは当然であるからである。前述したようにダム等の安全性の断定はその多くの不確定要素が故に現在の科学技術上も必ずしもなし得るところではない現状に鑑み、その不利益の重大性をみるとき、本件において、少くとも訴の利益を肯認する限度において、不利益発生の危険性を認めることは、裁判制度の利用という国家的利益の存在を積極的に肯定すべきである。

前掲判例はいずれも、結果の重大性を重視し、そのことから、或いは被害の蓋然性を論ずるまでもなく、或いはその主張のみから、訴の利益を肯定したもので、まさに右の立場に立つ判例といえよう。

(四) 結論

以上詳論したとおり本件において上告人らに訴の利益を認めても決して濫訴にわたることにはならず、原判決は、右判断基準を誤つて解釈した違法があり、その結果判決に影響を及ぼしたこと明らかである。

二、理由齟齬、事実誤認の違法

原判決は本件代替施設の安全性を検討するにあたつて、種々の論法で論証を試みているが、その基本的姿勢は、前述した「いいすぎをする誤り」のみを重視し、「見逃しをする誤り」を強引に無視することによつて、狭い結論をくだし、その結果、理由齟齬、事実誤認をおかしている。論点は多岐にわたり、極めて専門的事項に関するので、その全てに触れることはさけ、根幹にかかわる重要な点のみについて、その誤りを指摘する。

地 名

一〇〇年確率

日最大雨量

観測期間

資料年数

備考

支笏湖

三八五・四

S二六~S四五

二〇年

上告人の主張

二九九・三

S三〇~S四〇

一一年

国側と同資料年数の場合

栗 沢

三四一・九

二〇年

南 幌

三三七・一

S二五~S四五

二一年

島 松

二一七・三

S二六~S四五

二〇年

長 沼

一五八・八

一七六・三

S一六~S四五

二八年

S二三~S二四欠測

角 田

一八三・一

S二五~S四五

二一年

二〇五・一

S一〇~S四三

三四年

気象協会資料

二五五・七

S三〇~S四〇

一一年

被上告人一審主張

一九二・〇

甲二〇〇号証による算出

一八八・〇

S二五~S四一

十七年

気象協会、等雨量線図

一五一・九

T一四~S四八

四六年

被上告人二審、原判決認定

(一) 流域雨量の推定

ダムの設計及びその安全性を検討する場合、将来、当該流域に降る雨量の推定からはじまる。この推定による最大雨量に合わせてダムの能力を決定するわけであるから、その値のとり方如何によつて、設計は勿論、事後の安全性の検討は全て結論が異つてくることになる。従つてこの推定は極めて重要なことがらに属するのである。

(1) 原判決は、被上告人の主張を採用してこの値を151.9mmとするのが「一応その合理性があると認め」「地域の事情に適し、相当である」と断定した。しかしながら、その理由は別として、この値は、右の表に示すとおり、現実に用いられているもの或いは、従来主張されているもののなかで最低の値になつている。

(支笏湖から角田までの値は、甲第一七〇号、一八〇号証、札幌管区気象台の資料に基き、長沼周辺の地点における、二〇年以上の年別日最大雨量の資料をもとに被上告人の用いた岩井式の方法により一〇〇年確率日最大雨量を算出したものである)

国や北海道が長沼地区において現実に実施、或いは計画している、治水に関する施設において使用している値との比較が次表である。

ワツカポツプダムは、本件富士戸川の隣接のワツカポツプ川のダムであり、その余は、いずれも本件富士戸川下流域の治水施設である。

これだけ多くの推定値がありながら、又、国自身が、現実の治水事業において妥当と認めて採用している値よりもはるかに小さい最低値であるのに、これをもつて、安全性を見込んだ相当なものと断定するのは、ひとり原審裁判所だけであろう。

そうして、どうしてこれを前提とした本件富士戸一号堰堤が「予定され得る範囲において、社会通念上十分な洪水調節の機能を有すると認め得られる」のであろうか。右に指摘したとおり、「予測され得る確率日雨量の範囲」は、原審認定の151.9mmを最低限として、上は、385.4mmまでである。「予測される範囲」とは最低の一点ではなく、一定の巾をもつて考えるのが常識であろう。原判決は、151.9mm降るであろうという推定がいつの間にか、それしか降らないと言う結論にすりかわつており、それ以上降る場合の危険性を無視していることになる。この点で理由齟齬・事実誤認がある。

工 事 名

確率日雨量

備  考

馬追運河排水機場

二二〇・九mm

ワツカポツプダム

さけ、ます孵化場資料

零号、北二号、東四線等

五〇年確率

原 審 認 定

一五一・九mm

(2) これを観点をかえて、これが、ダム等の決壊による責任を問う場合如何なる結論となるのであろうかみてみよう。

「道路等のいわゆる人工公物と異る河川は、いわゆる自然公物は、もともと危険が内在しているが故に、道路同様法律上絶対的安全保護義務を課するのは相当ではないとされているが、それでも、完成した堤防等の治水施設が設計外力(設計上の外力)に見合う抵抗力を具有していなかつたため、設計外力を下回る破壊力で破壊され災害の生じたとき、例えば、完成した堤防が計画高水位、計画高水流量に見合う断面構造をもつていなかつたため、それ以下の水位、流量で破堤したような場合である」「当該治水施設を作る以上、手落ち手抜きは許容されず、設計外力に見合う抵抗力を有する治水施設が作られねばならないと思われるし、またこのような効用をその後も維持確保すべきことは法の要求するところである。完成した治水施設については設計外力の範囲内の外力に対しては、ほぼ絶対的にその安全性を確保しなければならない義務があると考えられるのであつて、この限りにおいては、このような適用場面に関する限り、道路の場合と同様の方法を採用することが可能であると考えられるのである」と説かれている。(新潟地判五〇・七・一二加治川水害訴訟判例時報七八三号八六頁以下)

これを本件にあてはめると、本件富土戸一号ダムは設計時においては、設計外力として、確率日雨量を255.7mmとし、これに見合うものとして余水吐流下量を35.4m3/secと決定して右ダムを施工、完成した。

ところが、既に指摘したとおり(被控訴人第一一回準備書面第一、一および二)設計時において、流出率の採用、流入量の計算方法につき誤りないし手抜きがあつたため、ダムへの最大ピーク流入量が29.16m3/secから41.09m3/secと増加して、右余水吐流下量の設計値は設計時と同様の考え方にたてば35.44m3/secでは間にあわずその手抜きが露呈してしまつた。

そこでこれを糊塗するために、その前提の一つである確率日雨量に151.9mmを採用することにしたのである。(もつともこれのみでなく、余裕高の無視と、実証を伴わない模型実験の結果をももちだしている)

つまり、設計時に想定した設計外力に見合う抵抗力が法的に必要とされるところ、これに見合う抵抗力は少くとも設計時の考え方に立つと欠くに至つたことは明らかである。

即ちほぼ絶対的に要求される安全確保義務に反した結果となつているのである。

しかるに原判決は、右被上告人の立場をそのまま是認して本件富士戸一号堰堤の安全性を断定した。

しかしながら、右に指摘したように、本件富土戸一号堰堤が、法的に絶対安全保護義務に違反している以上、これが安全であるといいうるためには、単に確率日雨量151.9mmが、通常の場合のように「一応合理性がある」とか、或いは右を前提としたダムが「予測され得る範囲において、社会通念上十分な洪水調節能力を有する」程度では足りず、これを超えて、確率日雨量が151.9mmを超えても絶対255.7以下となること、又、風波高は0.6m以上ではあり得ない等の証明がない限り、絶対安全確保義務違反を免れることにはならない筈である。何となれば、この範囲内の原因で何らかの事故が発生した場合、それは当然予見し得たことになるからである。

もつとも被上告人は(原判決もそのまま認定している)本件ダムは日雨量三二〇mmまで耐え得ると主張しているが、もともと255.7mmを前提にして設計したものが、実際には三二〇mmまで耐え得るものができたとは、実に無駄な設計をしたことになるが、これは設計時には決して考えたことでもなく実際の施工においてあり得る筈もない。後の数字の操作によるものであることに注意すべきである。

そこで、右のように損害賠償責任においては、その責任が十分肯定され得るのに、訴の利益を論ずるにおいてこれが否定されることは、どうみても首肯し得ない。もつとも損害賠償請求と、抗告訴訟の違いを考えてみても、裁判制度の利用という国民の側からみた場合、むしろ損害発生以前にこれをチェックする手段を認めてこそ、利益保護の観点からより妥当であろう。

(二) 原判決が根拠とした模型実験による富士戸一号堰堤の余水吐最大排出能力36.1m3/secについて

(1) 被上告入の主張する模型実験が、本件富士戸一号堰堤をどれだけ忠実に反映しているかは、極めて問題であり、これが検証されない限り、右36.11m3/secの値は、その前提が欠くことになるが、この疑問点は後記審理不尽の項で詳述する。

(2) 余裕高について

設計基準によれば、如何なる悪条件下においても、洪水が堤頂を越流することのないように、フィルダムの堤高を十分大きくとるべきことが要求されている。即ち余裕高(安全高と風波高)をとることとされている。この場合、風波高は一m、安全高は0.05H(Hは基礎地盤から計画高水位までの高さ)とされている。

これを本件富士戸一号ダムにあてはめると右図の如くである。

即ち設計基準の公式通りにすると、風波高は一mとされているのであるから、これから計算すると、余裕高は1.43m必要となる。設計時においては1.0mをとつていた(乙四五号証の二)ところが、被上告人は控訴審になつて0.6mをもつて十分であるとし、原判決もこれを前提にして、前記余水吐最大排出能力36.11m3/secを算出している。設計基準通りに余裕高を設けるとすれば右最大排出能力はなんと27.7m3/secに低くなるのである。被上告人及び原判決があえて設計基準の公式に従わず、風波高をあえて一mから0.6mに縮めた理由は、本件富士戸一号堰堤のダムサイトは「局地的な強風地帯である証拠はないから」最大風速を毎秒二〇メートルとみてさまたげなく、堤体から対岸までの最長自由水面距離は図面上から三〇〇メートルであるとの前提による。ここでも原判決は、いいすぎをする誤りのみを重視し、0.6m以上必要とした場合の危険性を強引に無視している。又設計基準よりあえて低い値でよいとする以上、この場合も絶対的安全確保義務の観点からするならば、対岸距離が、通常の場合のみならず、異常洪水時においても三〇〇mは絶対に超えることがないこと、更に、最大風速が二〇m/secを絶対超えることのないことが証明されねば、右義務違反を免れることはできないことになる。右の証明は少くとも概括的な想定では足りず、現地に即した実測、及び、一定の観測値等から証明される必要があるところ、原判決は何らこれがなされていない。事実誤認は明らかである。

(三) 設計洪水流量21.379m3/secについて

原判決は日雨量182.3mm(確率日雨量151.9mmを1.2倍したもの)の降雨があつた場合、本件流域から富士戸一号堰堤に流入する最大洪水流出量を21.37m3/secと推定した。一般にダムの流域面積が小さければ、設計洪水流量はそれに比例して増加する関係にある。設計基準では、流域面積五km2の場合一km2当たり毎秒二〇t三km2では二三tの割合になつているとされており(比流量)、これを基準として設計洪水流出量を算出すべきとされている。ところが、原判決で推定した設計洪水流出量から比流量を求めると、わずか一km2当り5.7tにすぎなくあまりにも小さすぎると指摘した。これに対し、原判決は、設計基準には前提となる降雨量が明確になつていないから、本件には意味はないとし、逆に同基準によれば、北海道地方は一km2当り毎秒六t以上とされているから、設計基準にかなうと判断している。

長沼近辺における小流域のダムの比流量

水 系

河川名

ダム名

流域面積

(km2)

設計洪水量

(m3/sec)

比流量

(m3/sec/km2)

竣 工

石狩川

千歳川

険 渕

58.8

500

8.5

調査中

石狩川

雨煙別川

栗 山

15.2

130

8.6

調査中

石狩川

幌向川

幌 向

15.0

240

16.0

昭59完成

石狩川

幌向川

宝 池

5.9

88

14.9

大14

石狩川

幌向川

千代谷

1.25

18.3

14.6

大12

まず、長沼近辺における小流域の現実のダムの比流量は上の表のとおりであり、これと比較すると如何に小さいか一目瞭然である。

次に判決は、設計基準には降雨量が明確になつていないから、単純に比較するのは意味がないというが、比流量はそもそも降雨量の差異、其他の条件の相異のあることを前提にして別の角度からの安全性確保の考えなのであるから、原判決の批判は何ら批判になつていない。

又、判決のいう、設計基準に記されている北海道地方の一km2当り毎秒六t以上なる基準は、日本大ダム会議でのコンクリートダムに適用できる基準であり、この点原判決に誤解があり、又一km2当り六t以上とあるのに本件では5.6tしかないのであるから、この基準からみても以下であることは明白である。設計基準にかなうものとの判断は明らかに誤解である。原判決は比流量のいいすぎをする誤りのみを重視し少なすぎの誤りを無視するものである。理由齟齬事実誤認は明白である。

(四) 台風六号による降雨について

(1) 原判決は、タンザン川下流域に発生した被害は、伐採跡地の利用方法の不適切によるものであるから、訴の利益とは無関係であるという。右にいう伐採と跡地利用を分断して考える論理の誤りは別項に詳論するとおりである。問題は伐採と跡地利用は切り離せないものとして如何なる範囲までの被害が問題となるかである。結局は伐採前において、跡地利用の方法から通常予見し得る範囲内にあるものは法的にも伐採による被害とみるべきである。

ところで、伐採後の代替施設を設置する場合如何なる場所に如何なる施設を設置すべきかは、まさに伐採跡地を如何なる形状にするかによつて定まる。そうだとすれば、本件射撃統制地域を如何なる状態にするかによつて、タンザン川流域への影響は当然又容易に予測し得るところであり、この影響に万全の措置を構ずべきことはこれ容易に首肯し得るところである。本件保安林の解除にあたつては伐採跡地の利用方法及びその代替施設を詳細な図面、資料等によつて明らかにし(乙四三号ないし四五号証)、この審査を経て解除を決定しているのであるから、タンザン川への影響は当然解除に先きだつて予測し得たといわなければならない。そうだとすれば原判決のように単に伐採跡地の利用方法の不適切な問題とするのは誤りといわねばならない。

(3) 又原判決は、タンザン川下流域に発生した被害は、伐採跡地利用方法の不適による問題であるから、かかる場合は、右利用行為の差止め、又は損害賠償請求等他の救済手段を講ずればよいとの判断をしている。

しかしながら本件の如き水害は、いわゆる公害の場合と等しく、被害が顕在化してからの対策ではもはや遅きに失する性格を有する。その対策の有効性は、潜在的被害状況の阻止であり、良好な状況を形成していく積極的な作用でなければならない。(成田「公害行政の法理」公法研究三六号参照)

そうだとすれば、これに対する対策はたんなる私法上の不法行為法的理念や、実効性のない差止の手段では解決し得ない問題である。のみならず本件において原判決のいう「利用行為の差止め」とは一体何を指すのであろうか。伐採後の地形の変更、道路の設置が、この具体的利用行為であろう。ところが、一度これが終了してしまつた以上、差止めの余地はなく、且つ本件において軍事上の秘密から立入禁止の場所であり、又事柄の性質上工事が完成するまでは事前には勿論、事後においても右利用態様は容易に知り得ることではなく、被害が発生し、右秘密を排除して初めて知り得ることであり原判決の判示は不能を強いる観念的議論といわざるを得ない。

原判決の判断はいずれからするも理由に齟齬がある。

(五) 堆積土砂量について

原判決は、七基合計二〇、三〇〇m3の計画貯砂能力をもつ右各砂防堰堤は、完成後四年九箇月を経た時点において、計算上向後なお少なくとも三〇年を越える期間土砂の流出防止の機能を発揮するから機能において不足はないと認定した。

砂防ダムの十分性は、土砂の自然流出を前提にして何年間機能を発揮するかで決定されるものではない。問題は、本件伐採後切盛された七〇、〇〇〇m3の土砂中何程の土砂が流出すると考えられるか。その流出推定土砂量に見合うだけの砂防ダムの容量が考えられているかが問題なのである。そうして上告人が問題にしているのは右流出推定土砂量が少きに失するというのである。右流出推定土砂量が、何年間で流出するかは、自然降雨、異常洪水等によつて異るのであり、自然降雨で五年かかるものが異常洪水によつては、斜面崩壊等により、一年で、砂防ダムが埋ることもあり得るのである。現に、原判決添付表二七によつても二、三号堰堤を除く他の堰堤は、過去四年間に匹敵する土砂が昭和五〇年一年間で堆積している。これはまさに台風六号の雨により一度に流出したことを意味する。

従つて、原判決の認定は土砂流出の構造を理解していないばかりではなく、意味のない認定であり、これだけでは上告人の主張に対する判断にはなつていないといわざるを得ない。理由齟齬は明らかである。

三、審理不尽理由不備の違法

原判決は、訴の利益の存否の判断において、「保安林の解除により、その生命身体の安全を侵害される不利益は、富士戸一号堰堤等の洪水防止施設により、補填・代替されるに至り、被控訴人らもまた、本件解除処分を争う具体的な利益を失つたもの」と結論づけて、上告人らの「訴の利益」を否定した。(原判決理由第五、訴の利益 二、代替施設、二〇五―二〇六頁)

そして、右決論を導く過程を原判決九四頁から二〇五頁にかけて展開している。しかしそこで展開されている種々の事実設定は、上告人の主張・立証を一方的に排斥して、その主張、立証を充分尽くさせることなく、一方当事者たる被上告人にのみその主張・立証を尽くさせて、認定するという違法な訴訟手続によつてなされたものであり、「審理不尽」以外の何物でもない。そして「審理不尽」であるが故に、原判決の右結論は誤つた論証過程のうえに結論づけられた誤つた結論となつているのである。

(一) 原審訴訟手続の概要

(1) ここでは「審理不尽」の違法を論述するのに必要な限度で、原審における訴訟手続の概要を述べる。

(ⅰ) 原審第八回口頭弁論期日(昭和五〇年一二月四日)においては小河裁判長が被上告人提出の第一〇回準備書面に対して、「最終準備書面であるか」との求釈明を行い、被上告人の「そのとおりである」との釈明がなされたうえで、次回期日を昭和五一年三月一二日午前一〇時、次々回期を同年六月一〇日午前一〇時と指定した。

この両期日は、上告人が、既に被上告人によつて陳述済みの第八回、第九回準備書面に対する反論をなすこと(代替施設関係)、その他の請求原因に関する主張および立証計画を明らかにすることが予定されるなど、当事者双方にさらに主張・立証準備を尽くさせるために、指定されたものであつた。

(ⅱ) 第九回口頭弁論(昭和五一年三月一二日)

(イ) 代替施設関係では、裁判長自らが上告人に対して第十六回準備書面に関して

①「侵水」と「冠水」の差異、②受益対象範囲である「夕張郡長沼町字馬追」の位置はどの辺かと二点の釈明を行い、上告人は、①に対して直ちに答弁し、②については調査のうえ明らかにすると述べたところ、裁判長はこれを了解したのであつた。ついで上告人が被上告人提出の第九回準備書面に関し、その反論反証のために、五点にわたる求釈明を行つた。

① 富士戸一号堰堤の際において実施している「パンチコーダシステム」の位置および標高を明らかにすること(控訴人第九回準備書面八頁参照)。

② 「余水吐及び斜ひからの流出量と堰堤の貯留量との関係から堰堤への時間別流入量を逆算すると表五の二のとおりである」(右書面一八頁)とあるが、右の「時間別流入量」を「逆算」した具体的計算方法を明らかにすること。

③ 控訴人は、原審において、流入量の算出に関して「流出関数法」を採用していたが、右書面二三頁では、木村俊晃博士の「貯留関数法」を採用している。右計算方法を根本的に変更した理由は何か。

④ 右書面二四頁にある施設内の流出量の算定にあたつて使用した人工地域の「定数」を具体的に明らかにすること。

⑤ 被控訴人が、控訴審の当初の段階から、控訴人に対して、釈明を求めていた「本件馬追山保安林を伐採した後に増加する水量が毎秒4.8立方メートルであるとの原審以来の主張は撤回するのか」との点についての再釈明を求める。

これに対し、控訴人は、右釈明の①②に関しては次回まで明らかにする。③④については、木村博士の鑑定書によつて具体的に明らかにできること、右鑑定書を証拠として四月一〇日位までに提出できると述べ、⑤の点については、新たな手法との関連で別途整理して主張すると述べた。

(ロ) その後、双方の書証の認否、上告人の書証の提出、前回提出の人証申請の趣旨説明等を行つた直後に、小河裁判長は、当事者双方に意見を求めることもなく、まして事前の合議すら行うことなく突然結審を宣言したのであつた。

(2) 右突然の結審によつて、代替施設に関しても上告人にとつてその後の主張、立証の機会を奪われたまゝ、前述の原判決の結論に至つたのであり、裁判所の訴訟手続として「審理不尽」の違法があるまゝに、判決がなされたことに帰する。それが、原判決においてどのように影響を与え誤つた結論として挙示されているかは、具体的に後述するが、原審訴訟手続が「審理不尽」と批難される手続であつたことは、その後の上告人らが申し立てた小河裁判長らに対する忌避申立についての札幌高等裁判所第四部の決定が、如実にこれを表現しているのでこれを引用する。

「(口頭弁論を終結したことに因り)、申立人(被控訴人)らが、し残していた主張及び立証の機会を奪われたと思つたとしても、無理からぬものがあるといわなければならない。

他方、控訴人(農林大臣)としても、第九回口頭弁論期日終了までに、そのなさんとする主張、立証をすべて尽したとは思つていなかつたものと認められる」(同決定二三頁)「その訴訟指揮として当否という観点からすれば、問題の余地があることは否み得ない。蓋し、裁判所は、当事者が主観的に主張、立証を欲している事項であつても、当該事件の裁判をするのに、それが必要なものでないと判断するときは、当事者にその主張、立証させずに結審できるものであることはいうまでもないが、裁判所が当事者にそのなさんと欲する主張、立証をする機会を与えるかのような審理態度を一旦とり、しかも当事者が裁判所の右のような審理態度を信頼してそのなさんと欲する主張、立証をまだし尽していないうちに、当事者の意に反して、その審理態度を変え、当事者がしようとしていた主張、立証の機会を奪つてしまうような措置に出ることは、仮令、当事者のなさんと欲している主張、立証が、裁判をするのに必要でない、と裁判所が判断するに至つたためであるとしても、当該当事者に裁判所が、不当に主張立証の機会を奪つたとか、充分な主張立証の機会を与えてくれなかつたとかいう不満を、ことさらに抱かせる虞れがあり、その意味において好ましいものではないからである。」(同決定二四―二五頁)

(3) その後、上告人らは原審裁判所に対して、具体的な主張、および証拠を挙げて口頭弁論を再開すべき旨を申し立てたが(昭和五一年六月一〇日付口頭弁論再開申請書、および、その後の二度にわたる補充書)、原審裁判所は、右申立に応ずることなく、原判決をなすに至つたものである。

既に述べた「訴の利益」に対する原判決の審理態度の基本的誤りは、以上のとおり審理を十分に尽さないという態度ともなつてあらわれることとなつた。本件において、この「審理不尽」がいかなる意味を有するか、最初に指摘する。

(二) あるべき訴訟手続――「訴の利益」の審理態度

(1) 「訴の利益」の本件訴訟における重要性

(ⅰ) 本件長沼訴訟において、「訴の利益」に関する論争は、極めて重要な部分として、遂行された。特に控訴審に至つては、被上告人はその主張、立証の大部分をこの論点に費やし、上告人らに「訴の利益」がないことを論証しようと努めた。ちなみに、被上告人は、控訴審において、合計一〇通の準備書面を提出したが、そのうち八通で右の「訴の利益」に関する主張がなされている。提出された書面はすべてこの点に関するものである。

従つて、上告人もこれに応じて、上告人に「訴の利益」が存することにつき、被上告人の主張に対する反論を行い、また積極的主張を行い、立証に努めてきたものである。また裁判所自身この点に関しては、第一回口頭弁論期日以来毎日のように双方もしくは一方に対して求釈明を行うなど、終始異常な程の関心を示して訴訟手続を主宰してきたのである。

右は、訴訟経過に照らして、一見明白であり、「訴の利益」に関する論争が、本件訴訟において、いかに重要な部分を占めていたかを訴訟経過のうえで認識することができるのである。

(ⅱ) 本件訴訟において「訴の利益」論は、単に実体判断を求めるために通過しなければならぬ一関門であり、右を厳格に解するならば、およそ憲法に規定されている裁判を受ける権利が没却されるという一般的意味においてのみならず、本件訴訟が自衛隊の存在が憲法九条、その他の人権条項に違反するや否やを直接の争点としている「憲法訴訟」であり、右の「訴の利益」をいかに解するかにより本件訴訟が、真に「憲法訴訟」足りうるかどうかが問われるという意味において、訴訟上極めて重要な位置を占めるものである。本件訴訟は一審以来、その最大の争点が自衛隊の憲法適合性にあり、訴訟関係人をはじめとして、全国民が裁判所に対して、その負托された権利を忠実に行使して、自衛隊の憲法適合性の実体判断をすることを、期待していたものであることはまぎれもない事実である。

従つて裁判所が本件訴訟の「訴の利益」の存否を審理するに当つては、その判断いかんが憲法判断が可能になるか否かに関わつている点を深く認識すべきである。

「訴の利益」について厳格なる解釈をとるならば、憲法判断を求める権利は「画餅」にすぎなくなるのであるから。

前述のように、近時抗告訴訟における「訴の利益」論に関して、いわゆる厳格な反射的利益論を排して、事実上の利益をひろく認めていこうとする判例の傾向は右に則して、正しいものといえる。

(ⅲ) このように、本件訴訟における「訴の利益」に関する判断が訴訟の経過、および内容からして、極めて重要であつたことからすれば、裁判所がとるべき審理態度は自ら明らかである。当事者の主張・立証を充分尽くさせ、その上にたつて判断をするという、訴訟の一般原則と貫徹することである。そのうえ、後述するように、本件における「訴の利益」をめぐる論争は、対象が自然現象であり、極めて科学的な論争であるという特殊性を併せ考えてみるならば、その審理はより慎重になされなければならないはずである。

(2) 本件「訴の利益」をめぐる論争の特殊性

(ⅰ) 本件「訴の利益」をめぐる論争のうち、いわゆる「代替施設」が完備しているかという問題は、ある特定の地域にいかなる降雨量を予測するか、降雨量のうちどれだけダムに流入する量と考えるか、設計されたダムの排出能力如何といつた、どれをとつても自然現象を対象にした議論であり、また、科学技術上の数値のうちどれが正しいかという科学の問題に帰する。

従つて、前述したように自然現象に対する科学技術上多くの困難性が存在する分野である。自然現象には、未知の分野が多く存在し、科学技術によつても解決できない、また説明のつかない現象が多々あることは、我々が容易に知るところである。(註1)とりわけダム設計に関しては、右に加えて基礎データーの不充分性、将来の予測困難性等技術上の困難性がつけ加わるのである。しかも、一たん決壊等災害が発生すれば人命にかゝわるのであるから、ダムの設計・工事・およびその後の安全性の検証に際しては、与うかぎり最大限の基礎資料を収集したうえ、あらゆる角度から、検討を加えたのち、最も安全と考える数値を慎重に選び出すという姿勢がとられるのである。(註2)そこには、自然現象に対する科学技術の限界性と謙虚さが、反映されているのである。(註3)

自然現象を科学技術レベルで論ずる際の右の態度は、裁判上において自然現象を問題とする際にも、その審理態度として、とられるべきである。裁判官をはじめ、訴訟関係人はいづれも、自然現象、科学技術に関しては「素人」である。従つて、二重の意味で慎重さ――徹底した審理が要求されるはずである。当事者双方は、自然現象、科学技術についてあらゆる角度から、主張をつくし、訴訟資料を提供する。

このような徹底した訴訟活動によつて、検証された安全性こそが「安全性」にふさわしいものとして、肯認することができるのである。訴訟において自然現象を論ずる場合には、右の当事者の訴訟活動が手続的にも保障されなければならない。ひとり裁判官のみが、自然現象を理解したかのように振舞い、当事者の訴訟活動を封づる挙にでることは、自然現象、科学技術、およびそこから導かれる真の意味の「安全性」を理解しない者の独断以外の何物でもない。

原判決は、富士戸一号ダムの洪水調節能力を検討するにあたつては、「社会通念上一応の合理性」をもつて検討すれば足りると判断している。その基本的思考自体が誤りであることは前述したとおりであるが、仮りに右立場にたつとしても右の「社会通念上一応の合理性」という基準で判断する場合、それが適用されるためには少くとも訴訟当事者によつて与えられる限りのあらゆる資料、あらゆる角度からの主張が提出されたという最低の条件がなくてはならない。右条件なくして、裁判官が一つの判断をするとすればそれは独断以外の何物でもない。

(3) 原審は、右1、2において、述べた本件「訴の利益」に関する重要性と特殊性から、要請される当事者の主張、立証を最大限に尽くさせるという審理状態を投げ捨て、前述一において述べたとおり、当事者の主張、立証が次回期日に、予定されていることが明らかであつたにも拘らず、一方的に審理を打ち切つたものであり、審理不尽としておよそ許されないものである。

(註1) 「災害は専門家の意表をつく」

(略)事故というものは、さまざまな専門家のセクショナリズムの間隙をねらつて現われたり、ほんの微妙なことがからみ合つて、専門家の意表をつくような災害が起るものである。それを決して忘れてはならない。(武谷三男著「安全性の考え方」二一七頁)

前述した「アメリカ・アイダホ州のテイートンダム」決壊の事例(三九頁)は、このことを雄弁に物語つている。

(註2) 現に、本件で争点とされた設計基準の百年確率日雨量については、近時安全性の見地から見直しがなされ、建設省の「ダム構造令」では、「二〇〇年確率日雨量」が採用されているのである。(官報第一四八六〇号三頁)

(註3) 不十分なデータからくだす結論は、被害者にとつて安全の方の側になつていなければならない。(右武谷一六九頁)

裁判は“疑わしきは罰せず”だが、安全の問題は“疑わしきは罰しなければならない”ということだ。公共、公衆の安全を守るためには“安全が証明されなければやつてはならない”のであつて、危険が証明されたときには、すでにアウトになつているのである。(右武谷二二一頁)

災害に対する技術の適用は「安全性が証明されない限り使わない」という公害対策の場合と同様の原則が必要であり、災害においても人為的な因果関係の証明されない場合には関係があるかも知れないとみて、常に安全側で計画や設計を行うべきである。(木村春彦 法律時報一九七七年臨時増刊「現代と災害」一四頁)

(三) 審理不尽の具体的表われ

(1) 「流域雨量の推定」について

(ⅰ) 原判決は、被上告人が主張した長沼観測所の雨量資料から算出した一〇〇年確率日雨量151.9ミリメートルをそのまゝ採用している。しかしながら右の点については、上告人が再開申請書で明らかにした諸点を考慮に入れていない。即ち、第一に「降雨特性の複雑性」に関する上告人の主張である。

本来、降雨特性は、単純に距離が近いということだけで決定できるものではない。特に、本件流域の如く局地の降雨量を問題にし、かつ本件富士戸一号堰堤の安全性の検討のうえで、最も重要な点である、集中豪雨の雨量を問題とする場合には、特にそうである。気象観測の実際から、降雨特性は、観測所の位置をほんのわづか動かすだけで異なること、観測所における計測自体には往々にして誤謬が少なくないことから、単純に一ケ所の観測資料だけで判断することは危険であるとの指摘がなされている。特に集中豪雨の場合、三キロメートル離れるだけでかなり降り方が違うといわれている。もともと、本件流域附近は、複雑な降雨特性を示しているのである。(被控訴人第一一回準備書面 一七頁)

原判決は、右の主張を何ら考慮にいれることをしなかつた。

第二に、富士戸川流域の確率日雨量の検討に際しての山地としての降雨特性に関し、原判決が右流域は、山地としての性格はさほど顕著ではないとしている点である。この点に関しては、次の主張、および証拠を考慮していない。

同じように平野のなかに突起物状に存在している島松山(標高五一二メートル)の影響で、平地の島松(標高三〇メートル)では一〇〇ミリメートルの降雨量しかなかつたのに、島松山の中腹の観測点(標高四〇〇メートル)では一七〇ミリメートルの降雨量が記録されており、これは山の斜面が降雨に対して影響を与えている一例である。また、最近停滞性局地豪雨がいかなる「条件(トリッガー)」によつて引き起されるかという研究が進み、そのなかで、平野のなかに突起物状に存在している丘陵であれば、それがたとえ二〇〇ないし三〇〇メートル程度の標高であつても、他の条件とあいまつて、停滞性局地豪雨を引き起す「条件(トリッガー)」になり得るものであること、従つて、降雨特性を判断するうえで、決して無視できないことが判明しているのである。さらに実例として、標高一七〇〇メートル余直径約二〇キロメートルの利尻岳の影響が約四〇〇キロメートルも離れた地点の気象状況に影響を与えていることが、確認されている。この現象は、直径が約二〇キロメートルの小さなものであつても広範な地域の気象――降雨特性に影響を与える存在であることを示している。

これらの主張を裏付ける証拠として、甲第三二九号証「島松山、および島松山観測所、同日の日雨量比較表」、同第三三〇号証「一九七五年二月二八日九時八分撮影の気象衛星ノア4号によるVIS写真」がある。

これらの点からしても、原判決が本件流域について、山地としての降雨特性を考慮に入れなかつたのは、気象の実際を知らない暴論であり、右の主張および証拠を検討すればおよそ原判決の如き決論には到達しなかつたであろう。

第三に、原判決が、確率日雨量の推定方法として「岩井法」を使用している点については、次のような疑問が存在する。

即ち、原判決は、「岩井式」を採用した根拠については、何ら説明するところがない。おそらく、被上告人が第八回準備書面一二頁で述べている「右等雨量線図を作成した日本気象協会北海道本部の説明書の解説によれば、雨量資料の数が二〇未満(二〇年未満)の場合にはトーマス法を、それ以上の場合には岩井法によつて計算することとされているところ、現時点では長沼に関し、資料数が二五となるので岩井法によつて計算した」という説明をそのまま採用したものと思われる。

然し乍ら、まず前提として資料数が二〇未満の場合はトーマス法を二〇以上は岩井法により計算するという根拠は何もない。被上告人の主張によつても、右書面の解説においてそのように計算したというにすぎず、それが正しいかどうかについては、何ら具体的根拠を示していない。もともと、この点に関しては、種々の計算方式(岩井式、積率法、順序統計法、ガンベル法など)があり、それぞれの計算方法により、確率日雨量を算出したうえで、最も安全性の高いものはどれかという観点から計算方式が決定されるべきものである。例えば、北海道においても岩井式で算定された一〇〇年確率日雨量(例えば乙二七号証等雨量線図の値)に対して、実測値がそれを越えている観測所が数カ所もあることからしても、岩井式に対して唯一の正しい計算方式として信頼をおくことはできないのである。(旭川・寿都・苫小牧・浦河・函館はそれぞれ実測値が一〇〇年確率日雨量を越えている。)

甲第三三一号証札幌管区気象台「北海道の気候」一九七三年版とそれに基づく実測値比較表を見れば右の点は一目瞭然である。

原判決は、右の点を何ら考慮することなく、盲目的に被上告人の主張する岩井式を採用したのである。

第四に原判決は、上告人が確率日雨量の求め方として主張した「北海道における確率降雨分布と地域特性について」(甲第二〇〇号証)における手法を排斥しているが、その理由は、被上告人の主張と全く同じである(控訴人第八回準備書面)。それが全くの誤解であることは右論文を正確に読めば判明する。その目的は降雨特性を判断するうえで、出来るだけ多くの前提資料(時間的特性、地域的特性を表わす因子)を集め、その多くの資料に基づきより正確な降雨特性を推認できる方式を作成するところに重点があるのであつて、(被控訴人第一一回準備書面一七―一八頁)原判決の云う様に、単なる「省力化」を目的としたものではない。従つて右論文に関してなお主張・立証を尽くす必要性があり、それが可能である。

以上述べたように、過去の雨量観測資料によつて将来降るであろう雨の降り方を予測することは、一〇〇年確立日雨量それ自体確率計算でその推定値は平均値を示すものであつて、それより多く降る可能性は十分あり、一つの目安を与えるにすぎないこと、過去の雨量資料の正確性については、現在のところ困難性と誤差を伴つていることからすれば、その予測は、あくまで人命尊重、人の生活を守るという立場からなされるべきであり(註1)、あらゆる資料を検討したうえでより安全な降雨量を決定すべきである。

(註1) 奥田穣法律時報一九七七年臨時増刊「現代と災害」二八一頁、二八二頁

以上指摘した諸点を考慮に入れれば、原判決のいう長沼観測所の雨量資料を用いた151.9ミリという数値は、たゞちには採用できないはずであり、さらにこの点に関する上告人の主張・立証を尽くさせる必要がある。

(3) 余水吐の洪水調節能力について

(ⅰ) 原判決は、富士戸一号堰堤余水吐の最大排出能力を毎秒36.11立方メートルと推定した。その唯一の根拠は、控訴人が提出した乙第二五号証財団法人建設技術研究所の模型実験の結果である。従つて、もし右模型実験にあいまいな点、実験として不正確な点があれば、右数値自体が不正確なものとして、排斥されねばならぬのである。結論からいえば、右実験はその装置自体に問題があり、不正確な実験といわざるをえないのである。

(イ) 模型実験で最大の問題はその模型が原型をどれだけ忠実に反映して作成されているかという点であり、実験の成否はその精度にかかわつている。

設計基準においては、右の点を次のように規定している。「模型実験を行う場合には、模型と原型の間の相似率を確かめておかなければならない……」(設計基準九四条)。これは、水理模型実験は模型という媒体を通じて実物(原型)の流れを推定するものであるから、原型と模型とは水理学的に相似でなければならない。そのためには、この両者において幾何学的にも、流体力学的にも相似でなければならないという意味である。乙第二五号証の実験内容を検討すると、右のいずれの点における相似についても、不正確であつて、とうてい、設計基準に適合した実験とはいえないのである。

(ロ) 現実の富士戸一号堰堤の構造と模型実験装置を比較して右の点を説明する。まず堰堤からの流量は、後掲の図2(堰堤と余水吐の断面を表示したもの)に示したようにコントロールポイントにおける水深で決定される。ところが富士戸一号堰堤については、Hcは判つていない(表示されていない)。判つているのはHo(堰外水深)丈であり、HoでHcを代用しているからHoとHcとの関係が一定でなければならない。ところで現実の富士戸一号堰堤ではこのHo―Hcの比率がいかなる比率であるのか不明であり、実験装置におけるHo―Hcの関係が実物のそれに一致しているか否かは判らない。この比率が忠実に実験装置に反映するためには、前述したように、実験装置が幾何学的にも流体学的にも相似でなければならないが、現実の堰堤の型と実験装置を比較すると、型そのものにおいて、図Ⅰのように異つており、幾何学的に正確な堰堤の型が再現されていない。即ち、実験装置は幾何学的に相似ではない。次に流体力学的にみると、実験装置の余水吐流路の「粗度係数」が、実際の余水吐流路の「粗度係数」に合致しているかが、最も問題となる(粗度係数とは水の流れに対する抵抗を考慮するために面の粗さを表わす係数)。これが合致しているかどうかは、①現実の余水吐流路の粗度係数を正確に測定し、②それを模型実験の水路に正確に表現しているか――どの様な作成工程で水路を作成したかによつて明らかにされなければならない。ところで、現実の余水吐流路の粗度係数を正確に測定したとは、とうてい思われないし、模型実験水路の作成工程も明らかではないので流体力学的にみても、相似性に疑問がある。以上の様な問題がある以上、実験について実物のHo―Hcの関係が正確に反映しているとは思われない。だとすれば、流量それ自体正確に把握することはできないことになる。従つて、乙二五号証の実験結果は、右の点からして正確性に疑問があり、従つて、36.11立方メートルなる数値自体右の点が立証されないかぎり、正確なものとして採用し難い。

従つて、右実験に関しては、なお前述した検証を経なければ、とうてい採用のかぎりではなく、原判決が右(2)にのべた疑問点を検証する機会を与えなかつたのは、審理不尽以外の何物でもない。

(ⅱ) 原判決の「余裕高」に関する見解について

原判決の「余裕高」に関する立論は、富士戸一号堰堤の安全性を爾後に検証するに際して使用した降雨量をもとに成り立つている。即ち、同堰堤への最大流入量を毎秒21.231立方メートルとしたうえで、その時の余水吐流下量毎秒16.60立方メートル、堰堤水位23.40メートル(計画最高水位)を前提にして成り立つ議論であり、もしこの前提数量――流入量およびこれから導かれる計画最高水位が変つてくれば、その立論の根拠を失い無意味な議論にならざるを得ない。ところで、右の最大流入量に関しては、上告人が第一一回準備書面において、詳細に批判し、右流入量が誤りであることを指摘しており、さらに、この点に関する主張・立証を尽くす必要があつた。

(3) 原判決の台風六号による降雨についての見解について

原判決は、台風六号の降雨による水害について、まず台風六号時の降雨は同地域における最大級の降雨であつたと認定しているが、台風六号は集中豪雨ではないこと、即ち降雨時間が長く、その反面時間雨量が多くないという現実を無視したうえで最大級と判定しているのである。富士戸一号堰堤の安全性の検討のうえで重要な要素は集中豪雨性であり、それ以前の降雨記録との比較も右の観点からなされるべきである。上告人は、台風六号について、時間雨量等安全性検討のうえで必要とされる諸要素を分析したうえ、台風六号によつて発生した被害が、富士戸一号堰堤の安全性にいかなる関わりを持つかを具体的に論証する必要性を指摘してきたが(被控訴人第一六回準備書面、および口頭弁論再開申請書一七頁)、原審裁判所はこれらを何ら考慮しなかつた。従つて、この点について審理不尽が存する。

(4) 釈明事項について

(ⅰ) 上告人が第九回口頭弁論期日においてなした五点の求釈明事項は、第九回準備書面に対する上告人の反論上絶対不可欠のものであつた。即ち、第一点の「富士戸堰堤の際において実施しているパンチコーダシステムの位置、標高を明らかにすること」は被上告人が右のシステムによつて計測された台風六号による雨量を前提にして、堰堤への流入量等を計算し、洪水調節機能が果された旨を立証しようとしているのであり、従つてその雨量の計測の正確性を判断するうえで、絶対明らかにされなければならない点である。

また「余水吐及び斜ひからの流出量と堰堤の貯留量との関係から時間別流入量を逆算した具体的方法」「流入量の算出についての貯留関数法に変えた理由」「施設内の流出量算定にあたつて使用した人工地域の定数を具体的に明らかにすること」以上の釈明事項は、被上告人が富士戸一号堰堤が台風六号の降雨に対しても洪水調節機能を果たしたとする結論を導く具体的手法および計算方法にかゝわるものであり、右手法ないし計算の正確性を検証するうえで、これまた絶対に明らかにされねばならなかつたものである。

さらに、「被上告人が伐採後に増加する水量が毎秒4.8立方メートルである点を撤回するか否か」の釈明事項は、それを維持するならば控訴審における被上告人の主張立証が根底から矛盾してくるという意味で、被上告人の主張の根幹にかかわる点であり、これまた絶対に明確にされねばならない点であつた。それ故、右五点については、被上告人自身がその釈明の必要性を認め、期限を明らかにして釈明すると答えていたのである。従つて、右釈明がなされれば上告人が検討を加え、被上告人の主張に対する具体的反論ないし、積極的主張および立証をなすことが可能であつた。従つて、この機会を上告人に対して保証するのが訴訟法上当然であり、この点からして審理不尽の違法が明らかである。

(ⅱ) さらに、原審裁判所は小河裁判長自ら上告人に対して釈明を求めた事項である「受益関係について、農業関係者については利用農地の所在、洪水関係については過去の冠水について日時をふくめて主張せよ」との点について、上告人が第八回口頭弁論期日において、次々回の六月一〇日に、その釈明と主張を行う旨述べていたことを無視し、結審したのであつた。

従つて、上告人としては、右の点に関する主張、および立証をなす具体的な利益を有していたものであり、裁判所がこれを無視した以上それは審理不尽以外の何物でもない。

(5) 以上述べた諸点は、いづれも原判決が「富士戸一号堰堤が代替施設として、社会通念上十分な洪水調節の機能を有するものと認め得られる」と結論づけた論証過程における重要な論点について、審理不尽が存在することを明らかにしたものである。もし、上告人によつて右に述べた通りの主張、立証および被上告人によつてなされる釈明をまつてさらに深めた主張、立証がなされるに及んでは、原判決が挙示している論証過程に重大なる疑問が生じること明らかであり、その意味で、原判決に「審理不尽」及び理由不備の違法があり、それが判決に対して影響を与えることも明らかである。

第三点 跡地利用分断論における法令違背

原判決は、平和的生存権が行訴法九条の訴の利益にあたるか、及びタンザン川下流域に発生した被害と訴の利益の存否の判断において、保安林の伐採跡地の利用行為から生ずる不利益は、伐採に伴う影響として考慮さるべき性質のものではないことを理由にいずれもこれを否定した。しかしながら右理由は次にのべるとおり、行訴法九条及び森林法二六条二項の解釈適用を誤つた法令の違背がある。

一、「法律上の利益」を実定法上の利益と解する誤り。原判決はまず「法律上の利益」(行訴法九条)を「その保護を求めて取消訴訟を提起した者に対し、法が行政処分を介し、その実現を所期しているものと解し得るものでなければならない」とし本件保安林解除処分の取消を求めるについて必要な法律上の利益は、「(解除処分により失われる利益は)指定に伴つて生じた利益にほかならない」ものと解している。

原判決は「法律上の利益」をこのように解する立場から、森林法が住民に付与しようとした利益は何かを明らかにし、これによつて「法律上の利益」を確定したうえで保安林指定解除処分により、右利益が喪われたか否かを明らかにすることによつてのみ、当事者適格の有無を判断している。

即ち、原判決は、当該行政処分(本件は保安林指定解除処分)により、上告人らにどのような利害が発生しているのか、処分による損害がどのようなものか、その損害の回復は法的保護に値いするものかなどを具体的に論ずることにより、原告適格の有無の正しい判断に到達しなければならないのに、その立場を放棄しているのである。この立場は、原判決が述べている「行訴法第九条にいう法律上の利益は、単なる実体法上の権利ないし保護利益にとどまら」ないとする指摘とも矛盾するものであり「法律上の利益」を実定法のカタログにより画しようとの立場に立つものといわざるを得ない。

こうした理解は、行訴法九条の解釈としては、原告適格の範囲をあまりに狭くするものとして批判され、判例の立場とも反するものである。

二、保安林指定解除処分により喪われる利益は、指定処分により所期された利益と同一であるとする原判決の判断の誤り

次に原判決は、本件解除処分は「指定の効果である禁止の解除にとどまる」ものであると断定して、解除処分により失われる利益も指定に伴つて生じた利益に他ならないとしている。

原判決の右断定には全く論証がなく、原審裁判所の独断といわざるを得ない。

保安林指定解除処分は、原判決の指摘するように、禁止の解除たる性格をもつものであるが、森林法二六条二項に基づく解除処分はこれにとどまらないものである。

即ち、森林法二六条二項による解除処分は、保安林の必要性が依然として存在する状況のもとで、当該保安林を伐採し、その跡地を保安林以外の公益目的に利用する必要がある場合になされる処分である。

この解除処分にあたつて、後に詳論するように、跡地利用の具体的目的を必要とし、農林大臣は、右利用が公益に資するものとして認容する旨の結論を出すのである。

従つて、解除処分は、単に指定の効果としての禁止の解除に止まらず、跡地を特定の目的に利用することの認容「処分」たる性格も兼有する指定処分とは異なる内容の行政処分なのである。

原判決は、指定処分と解除処分が右に述べた意味においても、又、その行政目的においても異なる処分であり、従つて、各処分により受ける国民の法的地位の変動あるいは利害関係も各々、別の様相を示すことがあることを敢えて無視する誤りに陥つている。その結果、農林大臣が跡地の利用として許容したミサイル基地設置により、どのような損害が具体的に発生するかも検討をせず、上告人らには原告適格はないものとしている。

解除処分の有する二つの側面を虚心にみるなら、農林大臣により建設が許容されるミサイル基地設置により発生する利害関係もまた、解除処分により生じた利害関係とされねばならないことは明らかである。

結局、原判決が、右利益をもつて「法律上の利益」ありとしなかつたのは、行訴法九条の適用を誤つたものである。

三、伐採と跡地利用を分断することの誤り

以上の誤りを前提として、原判決は跡地利用から生ずる不利益をもつては上告人らの原告適格は認められないとするために、保安林指定解除処分とミサイル基地設置の間には、事実上の連鎖関係はあるが、法的に一体のものとは評価はできないとの議論をしている。

原判決は、「伐採」は解除処分の効果に含まれると論じながら跡地利用とは一体でないとする理由について何一つ合理的論証をなさない。仮にあつたとしても、以下に述べる理由により、「伐採」(解除処分)と「跡地利用」を分断して考えることは誤りである。

(一) 森林法二六条二項に基づく保安林指定解除処分は「公益上の理由により必要が生じたとき」に、その保安林を存続せしむべき理由が依然として存在する場合になされる。

この場合、解除処分は、保安林指定の解除(伐採の許可)だけがなされるのではなく、伐採後の跡地の利用の仕方に対する認容も同時になされるのである。この点で、森林法二六条一項による解除が、伐採の許可に止まることと、大きく異なつている。この跡地利用の認容は、当該解除処分発動の唯一の目的をなすものであり、かつ、その解除処分の法適合性を担保する基準となりうる点で、単なる「認容」にとどまらず、跡地を当該目的に利用することの農林大臣による許可処分たる一面も保有するといわねばならない。

農林大臣が、その公益判断を誤り、非公益目的に供するために、当該保安林の指定を解除する場合には右解除処分全体が違法性を有するにいたり、取消を免れないのである。

このように、保安林指定解除後の跡地の利用は単に事実上の関連において解除処分と連鎖関係を有するに止まらず、法的にも一体のものとして存在するのである。

ところで、解除処分に際し要求される右公益判断を誤ることにより利害関係人に生ずる利害関係の変化が、保安林存続により直接にもたらされる利益を喪失するにとどまらず、違法な目的に跡地が利用されることによりもたらされることのあることは、改めて指摘するまでもなく明白である。この場合に、右利害関係の変化も、当該解除処分によるものといいうることは先に述べたように、解除処分の内容自体から明らかである。

仮に、「公益目的」による跡地の利用が、右に述べた意味において、解除処分自体に内包されるものとはいえないとしても、跡地の利用が解除処分目的とし、かつその処分にあたつて当然に実現が所期されていたものであるからそのことから生ずる不利益ないし利害関係の変化をも原告適格に必要な「法律上の利益」として考えるべきことは、原判決の指摘するところからもうかがえるところである。

すなわち、原判決は、「法律上の利益」は「単なる実体法上の権利ないし保護利益にとどまらず、行政処分が法の趣旨に基づいてなされた際、法目的達成のために特に実現が所期されたと認め得るに足る事実上の利益も含みうる」あるいは、「ある公益目的達成のための行政処分をなすにあたり、右処分に伴い直接影響を及ぼすものとして現実に配慮されたと認むべき事実上の効果はそれ自体処分と不可分のものと考えるのが相当」(原判決第四、一)とするのである。

また、東京高等裁判所昭和四七年九月二七日判決は、原子炉設置のための建築の建築確認について違法を理由に審査請求を求めた附近住民らが、裁決の取消を求めた訴訟につき、その原告適格について次のように判断している。

「本件確認処分(註、建築確認処分――註は上告代理人が附した。)があれは、その効果として建築の施行が適法となるわけであるから三菱原子力工業株式会社が建物を完成して操業を開始する段取となることは明らかであるが、その操業が開始された場合、被控訴人(註・原告――同上)らが危惧する災害が発生する蓋然性はともかく、万一災害が発生したならば附近住民の損害が僅少ですまない場合のあることは常識に属する。したがつて、被控訴人らが附近住民である限り、確認処分によつて間接的権利または利益の侵害を受けるといつてよい」(東京高裁昭和四四年(行コ)第五五号)

として、附近住民に原告適格を認めているのである。

こうした原判決の指摘する行訴法九条の趣旨及び、右裁判例に照すとき、本件保安林解除処分の直接の行政目的とされ、かつ、処分により、その実現が当然に所期されていた本件ミサイル基地の設置から利害関係人に生ずる不利益ないし、利害関係の変化も、本件解除処分により生ずるものとして、考慮され、判断されねばならないことは明白である。原判決の如く、跡地利用は、解除処分とは全く法的一体性をもたず、伐採だけが、その効果であるとすることは全く合理性を欠いた詭弁といわざるを得ない。

(二) 右に述べた如く、森林法二六条・行訴法九条の趣旨から、本件跡地利用(ミサイル基地設置)を解除処分と一体のものとして考えるのが妥当であるにとどまらず、抗告訴訟の機能からみても合理的である。

本件ミサイル基地が設置されることにより上告人らが、侵害のおそれがあるものとして主張する利益は、上告人らの生命、財産である。これらの権利が、国家の違法な行為により、侵害されてはならない「法律上の利益」であることは何人も否定できないのである。

そして上告人らは、農林大臣(被上告人)は本件保安林指定解除処分にあたつて、公益判断を誤り、憲法に違反する自衛隊のミサイル基地を設置するという、違憲の目的のために解除処分をなしたことを批判して本件処分の取消を求めているのである。

上告人らは、右違法を指摘して、裁判所に本件解除処分を取消させることにより、自らの生命、財産を守るという大きな私的利益を有している。他方、裁判所は本件訴訟を通じて、政府に対し違法状態を除去させ、行政の法適合性を保障するという大きな職責を果すことになる。こうした場合に本件訴訟を上告人らに遂行させることは抗告訴訟の機能、ひいては憲法の要請に合致するところでもある。

すなわち、本件訴訟により、本件解除処分が違法とされ取消されることにより国のなした、本件伐採、ミサイル基地の設置は違法とされ、国は基地・施設を撤去し、当該跡地に森林の植栽義務を負うことになる。

これらを通じて、上告人らは違法な解除処分により生じた不利益が回復され国も又、違法状態を放置しない、あるいは、是正するという基本的責務を果すことができるのである。

四、以上のように、原判決は、行訴法九条および森林法二六条二項の解釈を誤り、本件保安林の跡地にミサイル基地を設置することにより生ずる不利益ないし利害関係の変化は、解除処分の取消を求めるにつき必要な「訴の利益」に該当しない、ないしは、解除処分とミサイル基地設置により生ずる不利益との間には因果関係は存在しない、又、タンザン川流域の被害は伐採跡地利用方法が不適切であるという問題であるから訴の利益を構成しないとしたことは、法令の解釈適用を誤つた違法があるものとして破棄を免れない。

第四点 平和的生存権に関する憲法解釈の誤り

行訴法九条の「法律上の利益」に該るべき上告人の平和的生存権を否定した原判決には憲法解釈の誤りがある。

一、原判決における憲法解釈の誤り

航空自衛隊第三高射群基地の建設をもつて、森林法二六条二項にいう「公益上の理由により必要が生じたとき」に該るとしてなされた本件保安林解除処分に対し、上告人は、その取消しを求めうべき法律上の利益として、第一に、保安林伐採にともなう洪水・水害等から、生命・身体・財産等の安全、営農等を確保すべき生存権利益を主張したほか、第二に、解除処分の目的たる本件ミサイル基地設置にともない、基地公害や一朝有事の際に、基地周辺に居住する上告人らが、戦火による惨禍をこうむり、これによつても生命・身体・財産ないし営農等の生存権的利益に回復不可能な侵害をうけることを避け得ず、これらの利益も法によつて保護された利益であるとし、これを「平和のうちに生存する権利」ないし「平和的生存権」として主張してきた。

原判決はこれに対し、前者が行訴法九条にいう法律上の利益に該当することを肯定したが、後者の平和的生存権については、「仮りに具体的な立法又は行政処分による事実上の影響として、個人に対し、何らかの不利益が生じたとしても」、憲法前文、九条ないし第三章の「条規により個々人に与えられた利益の喪失とはいい得ない」とのべて、その権利性を否定し、法律上の利益に該当しない旨判示した。

しかし、これは、以下にのべるごとく憲法の前文、九条および第三章の解釈の誤りにもとづく結果であり、取消しを免れない。

二、本件ミサイル基地設置にともない上告人らのこうむるべき権利侵害の具体的態様――平和的生存権に対する具体的侵害

(一) 馬追山はもとより、上告人らの居住する長沼町には、これまで自衛隊ないし在日米軍の基地、施設が全く存在せず、航空自衛隊の本件ミサイル基地が最初の軍事基地の設置である。そして、この基地は、設置の期限が定められておらず、しかも、本件保安林解除にあたつて「国家の防衛および防衛施設の設置が、きわめて高度の公益性を有するものであることはいうまでもなく、その敷地として本件土地が最適地であつて、他に適地を見出しがたい」旨、被上告人が主張している(第一審最終準備書面第二二)ことにてらしても、半永久的存在として予定されたものであることは疑いがない。

(二) 右ミサイル基地設置にかかわる適法性の判断を暫く措くとして、航空自衛隊がこれを設置した目的は、もつぱら外国軍隊との交戦すなわち日本に侵入しまたは侵入すると判断される外国軍隊の航空機に対し、核または非核の実弾々頭を装着したミサイルを発射し攻撃を加えることにある。むしろ、これ以外の目的ないし任務を有しないことに本件ミサイル基地の性格・特徴があり、それ故に、右の基地設置にともない、馬追山を基点とした外国軍隊との実戦・交戦がくりひろげられる可能性が生じたことは何人も否定できない。

馬追山に本件ミサイル基地が設置されたことにともなつて、長沼町に居住する上告人らが生命・身体・財産等につきこうむる直接的かつ具体的な侵害の態様は、原審においても主張したが、おおむねつぎのとおり類型化することができる。

第一に、一朝有事の際、本件のごときミサイル基地が最優先的に攻撃目標とされることは、第一審の証人源田実はじめ、同高橋甫、小山内宏ら軍事問題専門家がひとしく認めているところである。外国軍隊による攻撃は、長距離ミサイルないし航空機によるもので、核たると非核たることをとわず、ひとたび攻撃があつた場合には、いずれも基地の周辺数キロの範囲内に居住する上告人らにとつて、何よりも自己および家族の生命の安全が確保される保障は何もない。

現在、ソ連国内に設置されている本件と同種のミサイル基地は、アメリカによつて戦略目標とされ、基地一カ所に対し、ICBM四基による 四メガトン(TNT火薬に換算して四〇〇万トン、広島型原爆の二〇〇倍相当)の核攻撃体制の対象となつている事実、およびアメリカによるベトナム北爆が、通常爆弾を使用したといつても、レーダー基地と対空ミサイル基地に対し、最初の三日間連続して集中的先制攻撃を加えた事例にてらし、このことは動かしえないことといえる。

第二に、馬追山に配備されるミサイルは、地対空ミサイル、ナイキ・ハーキュリーズで、日本名をナイキJといい、本体の全長約12.5メートル、重量4.5トンの二段式ロケットであるが、ナイキが発射されると数千メートルの高度で、約三〇〇キロの炸薬が装てんされているロケットの第一段目、いわゆるブースターが切りはなされ、ロケットエンジンをつけた弾頭部がさらに上昇をつづける。このため、高熱で熱せられた長さ約五メートル、重量約二トンといわれるブースターが地上に落下することになるが、これは、二段式ロケットである以上避けられない現象であり、その落下範囲が危険区域となる。ナイキの発射角度によつて異るが、おおむね八〇〜九〇度で発射した場合を基準とすれば、発射地点を中心にした二キロの範囲、これに気象条件が加わるため、基地の五キロ周辺までを危険地帯とするのが、アメリカにおける例とされている。そして、沖縄においては現実にブースター落下による事故が発生しているのであり、アメリカ本土はじめ諸外国では、ミサイル基地が周辺に人家の存在し、または市民が立入る地域に設置される例がなく、まして本件のごとく長沼町の市街地が危険地帯に位置するという事例は到底ありえないことだといわれている。

被上告人は、馬追山の本件ミサイル基地においては、実射訓練を行わず、アメリカのニューメキシコ州にあるマック・グレゴアのミサイル訓練基地において練習しており、将来は、青森県車力村に射爆場を設置する計画であるという。このこと自体、ブースター落下による被害の現実的危険性を、防衛庁自ら認めているものということができる。

第三に、侵入する外国軍隊の航空機に対するナイキの射撃は、これを一たん高度三万メートルにうちあげ、レーダーの誘導で落下させて追尾するという攻撃方法がとられる。けれどもレーダー妨害兵器ECMの発達により、あるいはレーダー機器の破壊で誘導が絶たれた場合、ミサイル本体がそのまゝ地上に落下することとなるが、噴射に加速度が加わり、マッハ三以上の速度となるから、落下地点の予測は不可能で、基地周辺に居住する上告人らが惨禍をこうむることを避けることができない。

また、実戦に際し、核弾頭ミサイルが使用された場合には、上告人らが放射能の被害を直接こうむることになる。ナイキJは非核用に改造したといわれているが、もともとナイキ・ハーキュリーズは核・非核両用であり、発射台のランチャーは両用であるから、核弾頭が搬入されるならば、本件ミサイル基地においても軽易な改修作業によつて、核弾頭の使用が可能である。

ナイキは最大高度四五キロメートル、飛行距離一三〇キロメートルとされ、地上管制室のレーダーによる指示にしたがつて目標に近づき、至近距離で炸裂し、目標機を撃破する。

ナイキの最大速度がマッハ三、空軍機の進歩も著しくソ連のミグ23はマッハ三以上の速度をもつといわれ、ICBM、IRBMのごとき弾道ミサイルにあつては、最大速度マッハ二〇といわれるほどであるから、こうした侵入機の速度からみて、通常弾頭による迎撃効果は、ほとんど期待できないといつてよく、アメリカが最初からナイキ・ハーキュリーズを核弾頭兵器として開発してきたのは由なきことでない。航空自衛隊が将来の実戦において馬追山に設置したランチャーから核弾頭ミサイルを発射する可能性は否定できないことである。

第四に、一九六八年アメリカのニュージャージー州の対空ミサイル基地で、ナイキが数発一時的に爆発した事故が発生している。弾頭が五キロメートルの地点に、ブースターが三キロメートルも飛び、兵士一四〜一五名が即死している。同種の事故が発生する危険は、性質上戦時に限らず平時においても常に現在化しているということができ、しかも前記のごとく周辺に人家の存在しないアメリカ国内の基地と異り、上告人らが数キロの周辺に居住している本件馬追山ミサイル基地にあつては、その生命・身体・財産は日常的に危殆にさらされていることになる。右の事故が核弾頭であつたということも絶対にありえないことでなく、その結果は想像するにあまりあるといつてよい。

(三) また一朝有事の場合にあつても、基地周辺の住民とそれ以外の一般国民とでは単に事実上基地が最優先的攻撃目標とされるというだけではなく、戦時国際法上次のような相違がある。たとえば、陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則第二五条において「防守セル都市、村落、住宅又ハ建物ハ、如何ナル手段ニ依ルモ、之ヲ攻撃又砲撃スルコトヲ得ス」と規定し、戦時海軍力ヲ以テスル破撃ニ関スル条約がその第一条において、「防守セラレサル港、都市、村落、住宅又ハ建物ハ海軍力ヲ以テ之ヲ砲撃スルコトヲ禁ス」と規定し、さらには空戦に関する規則案が第二四条一項において、「空中爆撃は軍事的目標、すなわち、その破壊又はき損が明らかに軍事的利益を交戦者に与えるような目標に対して行われた場合に限り、適法とする。」と規定している。

このように戦時国際法においては軍事基地に対する攻撃と「防守セサル都市」などおよび非「軍事的目標」とでは明確に区別が設けられている。長沼町周辺が、ナイキ基地のない平和な「防守セサル」非「軍事的目標」にとどまる限りは、かりに一朝有事の場合といえども外敵による攻撃を少なくとも戦時国際法上は受けることがないのに対し、ナイキ基地が建設された場合には最優先攻撃目標となる以上、ナイキ基地建設による長沼町周辺住民の生命・身体・財産の安全に対する危険性はこの点においても認められるのである。

(四) 本件保安林解除処分の目的たるミサイル基地設置にともない、上告人らが、このように生命・身体・財産等の安全に対し、侵害をこうむるべき危険は、裁判所はじめ、何人も否定できないところであり、そして、この利益の侵害は、本件ミサイル基地の設置、したがつて馬追山の本件保安林解除処分がなかつたならば、およそ起り得なかつたことも明らかで、その因果関係もすこぶる明確なところである。

三、行訴法九条にいう法律上の利益の権利性

(一) 原判決は、行訴法九条の法律上の利益に関し、洪水・水害等により侵害の危険をこうむる上告人らの生命・身体・財産等の生存権的利益については、これに該ることを認めている。その説明するところは、「行政処分の目的は公益の実現にあり、その達成を効果的にならしめるには、右処分に伴う事実上の影響、効果をも広く配慮して行われざるを得ないものであることを考慮」し、更に「今日の高度に経済生活が成長複雑化した社会においては、単に国民相互間の私法上の権利関係が複雑化するのみならず、微妙な事実上の利害関係が互に因果関係を生じ、複雑多岐に錯綜し、かつ現実の生活に無視し得ない結果を招来することも生じ、他方、行政の作用領域も質的、量的に著しく増大し、国民の日常生活は、多種多様な形式による行政活動に密着した関係に立ち、これに対する依存度も高くなり、したがつて、一つの行政上の措置の効果は、直接の当事者のみならず、ますます広く多数の第三者の利害に複雑かつ深刻な影響を及ぼすに至つているものであることを考慮すれば、ある公益目的達成のための行政処分をなすにあたり、右処分に伴い、直接に影響を及ぼすものとして、現実に配慮されたと認むべき事実上の効果は、それ自体処分と不可分のものと考えるのが相当であるから、これもまた法的効果というべきであり、行訴法九条にいう法律上の利益は、単なる実体上の権利ないし保護法益にとどまらず、行政処分が法の趣旨に基づいてなされた際、法目的達成のために特にその実現が所期されたと認め得る事実上の利益も含み得るものと解すべく、したがつて、また、その利益をうけている者であれば、必ずしも処分当事者に限らず、第三者であつても、その処分を争いうる余地があるものと解するのが相当である」こと、「社会生活の基本的存在たる個々人の生命・身体の安全は、第一義的に考慮されなければならない」というのである。

(二) 右のとおり、原判決は洪水・水害等によつて侵害される利益に関しては、事実上の利益でも、また第三者でも原告適格をもつことを認めながら、本件ミサイル基地設置にともない侵害を余儀なくされる上告人らの生命・身体・財産等の利益については、一たんそれが発生したときは、回復不能な結果となることが、ほとんど確定的に予見できるにもかかわらず、これを行訴法九条にいう法律上の利益に該らないとしたのである。

ここでは、① 司法権が関与しうる法律上の利益がある場合でなければ認められないとし、② この利益は、裁判所の法的判断により個別的に解決されるべき具体性、個別性を有し、かつ、裁判所の法的判断の結果、直接解決されうる利益であることが必要であるとされ、平和的生存権の権利性ないし裁判規範性が、憲法前文、九条および第三章からは認めることができないとする。

(三) 本件ミサイル基地設置にともなう、前項(二)で指摘したごとき、上告人らの生命・身体・財産等の安全に対する侵害は、ひとたびかかる事態が発生した場合、被害が甚大で、しかも不可避である点では、洪水、水害をはるかにしのぐということができ、その限りでは、それが法律上の利益たると事実上の利益たると、また生命等の侵害をうくべきものが、本件保安林指定の直接的当事者たると、第三者たるとをとわず、ひとしく本件保安林指定解除処分の適法性を争うべき現実かつ切実な利益ないし、必要をもつことを否定できない。原判決の判示は、この点で一貫性を欠く結果となつている。

(四) 東京高等裁判所昭和四七年九月二七日判決(判例時報六八〇号一九頁)は、三菱原子力工業株式会社が大宮市内に原子炉を設置するための建築確認処分につき、近隣居住者にその取消を求めるべき原告適格のあることを認め、「本件(建築)確認処分があれば、その効果として建築の施工が適法となるわけであるから、三菱原子力工業株式会社が建物を完成して操業を開始する段取りとなることは明らかであるが、その操業が開始された場合、被控訴人らが危惧する災害が発生する蓋然性についてはともかく、万一、災害が発生したならば附近住民の損害が僅少ですまない場合のあることは常識に属する。したがつて、被控訴人らが附近住民である限り、確認処分によつて間接的な権利または利益の侵害をうけるといつてよいから(建築審査会に対し)、審査請求をする法律上の利益を有すると解すべきである」と判示している。

また、高松高等裁判所昭和五〇年七月一七日決定(判例時報七八六号三頁)は、四国電力株式会社が愛媛県伊方町に設置する原子力発電所につき、内閣総理大臣がなした許可処分の取消を求める法律上の利益が原子炉の設置場所附近に居住する住民に存することを肯定し、つぎのとおりのべている。すなわち「……もつとも抗告人(内閣総理大臣)は、本件原子炉が設置されても、相手方ら住民の生命、身体及び財産の安全に対する制約は生じないこと、仮りに右制約が生じたとしても、それは間接的であり、かつ、具体性のない危ぐ、懸念に起因する事実上のものであること、相手方らは本件原子炉設置許可の申請者ではないこと、その他別紙「抗告の理由」の一、1ないし3に記載のような種々の事由をあげて、相手方らと抗告人との間には、民訴法三一二条三号にいわゆる「法律関係」はないと主張している。成程、相手方らは、本件許可を申請したものでもなければ、本件許可処分の直接の対象者(被処分者)ではないけれども、相手方らは、本件許可処分によつて原子炉が設置されれば、その生命・健康等が侵害される危険があると主張して本件許可処分の取消を求めているところ、行政処分の取消を求める抗告訴法の原告適格は、当該行政処分の直接の相手方(被処分者)のみにあるのではなく、いわゆる第三者であつても、当該行政処分によつて法的に保護された利益を侵害される場合には、右行政処分の取消を求める抗告訴法の原告適格があるものと解すべきであり(最高裁、昭和三七・一・一九・判決、民集一六―一―五七参照)また、右原告適格を認めるための前提である法的に保護された利益が侵害されるか否かは、当事者の主張自体に照らし、一般的・抽象的に判断すべきものと解すべきである。ところで本件において、四国電力株式会社は、本件許可処分があつたことにより、相手方らの居住する附近に発電用の本件原子炉を設置して操業を開始することにしていることは一件記録に照らして明らかであり、また、本件原子炉が設置されて、その操業が開始された場合には、その安全性が充分であれば格別(この点は本案訴訟で終局的に判断さるべきことである)、仮りに本件原子炉の安全性が充分でなく、万一事故等が発生した場合には、付近住民の生命・身体が侵害されるに至ることは、経験則上明らかであるから、本件原子炉の設置場所付近に居住する相手方らには、一応法的に保護された利益(生命・健康等)を侵害されるとして、本件許可処分の取消を求める法律上の利益があり、右取消の抗告訴訟を提起する原告適格があるというべきである」というのである。

本件保安林指定解除処分の必要々件として、これと不可分一体の解除目的であるミサイル基地設置にともない、基地周辺に居住する上告人らの生命等に回復できない侵害がもたらされることは、前記のとおり、経験則上きわめて明らかなことであり、生命・身体等が一応法的に保護された利益であることは、疑う余地がない以上、上告人らの右利益が「平和のうちに生存する権利」ないし「平和的生存権」として構成されるか否かを問うまでもなく、保安林解除処分の取消を求める訴の利益を、裕に認めるに足るといわねばならない。保安林解除処分の右目的が憲法九条その他の諸条項にてらし、果して「公益上の理由」に該当するか否かの問題は、これとは別に、本案訴訟で終局的に判断されるべきものだからである。

四、権利としての平和的生存権

(一) ミサイル基地設置にともなつて侵害されることになる上告人らの生命・身体・財産等の安全を確保すべき利益をもつて、行訴法九条にいう法律上の利益に該らないとする原判決は、つまるところ右生命等の侵害事由である「国防その他の軍事目的」について、生命に優越する価値を認め、それ故これを「権利ないし利益の侵害」と解さず、むしろ国民にとつて受忍すべき義務とするものにほかならない。

(二) 原判決のこうした解釈は、近代諸憲法における権利保障が、これまで国家が戦争遂行する場合、その目的ないし大義の前にほとんど無条件的に制限ないし否定されてきたという、歴史的事実に根拠をおくと解される。しかし生命に対する権利は、人権の論理的、物質的前提というより、むしろ最重要の基本的人権そのものであるから、平和を確保すべきことが、基本的人権を保障する必須不可欠の条件にほかならず、しかも、平和の喪失は、たんに生命の直接的破壊につながるだけでなく、国家が掲げる戦争の大義のもと、すべての自由権その他の基本的人権に対しても抑圧を不可避たらしめてしまう。そして、これまでの戦争の経験は、こうした事態の招来が、たんに専制的ないし独裁的国家に限らないことを示してきた。戦時下におけるアメリカが「何人も……法の適正な手続によらなければ、生命、自由又は財産を奪われない」(修正五条)という合衆国憲法の人権保障条項のもとで、人権を制限はく奪した事例は限りなかつたし、明白現在の危険の法理のごとき人権保障のうえで歴史的役割をはたした判例法理が、むしろ戦時における自由の制約を正当化する機能を果したことも経験ずみである。

近代諸憲法における権利章典は、戦時においてこそ、生命に対する権利という最重要の基本的人権が危殆に瀕せしめられ、人権の保障が最も必要とされるものであるのに、何故、その事態のもとにおける人権保障を断念し、保障されないことが、肯定されてきたのか、という疑問をはらみながら、歴史的発展の途をあゆんできたといつてよい。

在来の憲法理論は、戦争と平和の問題を議会制民主々義の枠組の問題として、戦争か平和かの選択は国民全体の民主的討議、すなわち選挙された国民の代表者による多数決原理の支配する過程で決められるという構成をとつてきた。そこでは、平和が人権保障に不可欠の基礎条件であるといつても、なお国民が多数決によつてこれを犠牲にすることが可能な政治価値にすぎないとされる。

ここに人権と平和の関係における根本問題が根ざしており、前記のような戦争時における権利保障の制約原理もここに由来していると解される。

アメリカ合衆国憲法の戦争に関する条項をみても、大統領の権限は「大統領は、合衆国の陸海軍および現に召集されて合衆国の軍務に服する各州の国民兵の総指揮官である」(第二条二節一項)との直接規定があるのみで、戦争に関するすべての問題の決定は、ことごとく連那議会の権限として規定され、戦争宣言、陸海空軍の募集、編成、建設、維持、支出金法の制定、陸海空軍の統制および規律に関する規則の制定、国民兵の召集、編成、武装訓練などの規定、要塞、武器庫、造兵廠、造船所その他の建造物の建設のため購入した地域に行う専属的立法、戦争その他国防に関する租税の賦課徴収などの権限がすべて憲法によつて付与されている(第一条八項)。そして防衛ないし戦争に関連した国民の権利の保障と制限についても、合衆国修正憲法にいくつかの条項が設けられている(修正二、三、五条)。

原判決が、平和を人権保障の要件と認めず、軍事目的によつて侵害をうけるべき生命はじめ基本的人権を法律上の保護の対象外としたのは、所詮、右のような在来的憲法構造に無条件、無批判的に拘泥し、日本国憲法の平和主義条項のもつ固有の意義ないし価値を理解しえなかつた結果というべきである。

(三) 日本国憲法が恒久平和主義を憲法の基本原理として宣明し、前文第二項において、全世界の国民の「恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利」を確認したのは、近代諸憲法の権利章典が、実際上は最も人権が侵害される「戦時を除外」した、留保付の権利保障にほかならなかつたという歴史的事実に対する反省とさらに近代における科学と生産力の進歩にともなう戦争手段の異常な発達が、戦争の規模と性格に革命的変ぼうをもたらし、国民と国家を総ぐるみとする全体戦争化、戦場と非戦場、戦闘員と非戦闘員の区別の完全な廃止、とくに第二次大戦における核兵器の出現を契機とした生命の大規模殺りの必然化に対処し、あらためて人類の生存を確保すべき現実的必要に根ざしたものである。一発で広島、長崎という大都市を潰滅させた原子爆弾は、当時のB29爆撃機四〇〇〇機分に相当する破壊力を発揮し、もはや何人も戦争の発生を防ぐこと以外に、自己の生命の安全を戦争からまもる術がなく、も早、平和を犠牲にし、戦争を手段として確保すべき価値が実在しえなくなつたことを如実に示した。人権が、自由権的基本権から社会的生存権、それから平和的生存権へと歴史的に発展し、日本国憲法が最後の平和的生存権を軸として存在するとの学説が、多くの共感をよび通説を形成しつつある所以もここにあるということができる。

「平和のうちに生存する権利」ないし「平和的生存権」が、自然法的基本権として確認されるにいたつて、多数決原理をもつてこれを制約することが認められず、これなくしてすべての基本的人権の完全な保障の実現を期しえないという意味で、権利のなかでも特に重要な権利としての性格と地位を具有するということができ、国防ないし軍事目的である本件ミサイル基地設置にもとづく上告人らの生命等に対する侵害は、右のとおり、平和的生存権の侵害として上告人らに受忍を強いるべき根拠を欠くことになる。

(四) 基本的人権としての「平和的生存権」が実定憲法に規定されたことによつて、国民が平和のうちに生存する権利、すなわち不戦・平和の確保が国家と国民との間の国内法上の権利義務の問題であることが宣明された点に顕著な特徴をもつ。

この点、従来は不戦・平和が国際法上の権利義務の問題として把握されてきたが、これと質的に異なる要因を含むことになつている。従前の方式では、特定国が負う不戦義務の対象は条約締結国であり、不戦義務の履行を確保する手段は、右の義務に違反して開始された戦争に対して、他の条約締結国が応戦して勝利し、勝利者の立場で、義務違反を糾弾し、正義を回復する以外にはなかつた。そこでは国民が不戦義務に対応する平和確保の権利主体となる余地がなく、しかも、平和に対する義務を戦争を手段として履行強制するという矛盾を内包していたということができる。

近代にいたつて戦争や兵力の行使を条約によつて禁止しようとする傾向がみられ、一九〇七年の「契約上の債務回収のためにする兵力使用の制限に関する条約」をはじめとして、国際連盟規約(一九一九年)、不戦条約といわれる一九二八年の「戦争の放棄に関する条約」、一般条約ではないがドイツ、フランス、ベルギー三国間で不戦を約束し、イギリス、イタリヤがこれを保障した右五カ国間の一九二五年「ロカルノ条約」等をあげることができる。

不戦条約第一条は「締約国は、国際紛争の解決のために戦争に訴えることを不法とし、かつその相互の関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、その各自の人民の名において、厳粛に宣言する」と規定したが、当該国の人民が権利主体となる余地はなく、これら戦争禁止の諸条約も効を奏せずに第二次大戦の招来となる。戦争の国連憲章(一九四五年)も、戦争防止を最大目標にかかげ、戦争や兵力の行使の禁止を現実に確保するための措置を詳細に規定し、これらの諸条約によつて違法とされるべき戦争の概念が、国際法の上では確立されるにいたつたといえるのである。

日本国憲法の平和主義条項に先立つて、国内憲法が平和主義をうたい、不戦についての規定を設けた例は、フランス大革命時の一七九一年憲法が「征服目的の戦争を放棄」し、スペイン一九三一年憲法、フィリピン一九三五年憲法等が不戦条約の規定をそのまゝ国内法化して、「国家の政策の手段としての戦争を放棄」する旨を定めているし、一九三四年ブラジル憲法、一九四七年イタリヤ憲法も同旨の規定をおいている。

しかし、日本国憲法の平和主義は、侵略戦争に限定して放棄ないし制限した従前のこれら諸憲法の定める平和主義とも本質的に異なつている。それは、侵略の目的たると自衛の目的たるとをとわず規定のうえで一切の戦争と軍備保持を禁止するが、その前提として国民の「平和的生存権」を確認し、その実現の具体的な制度的保障として、この規定を設けたものにほかならない。

憲法典の中に戦争否認の法理をとりこんだ場合の法的効果について、国際法学者ミルキヌーゲツエビイチは、「われわれは、憲法の明文に戦争否認を導入することが、理論的かつ実際的な考慮によつて是認されうる」として、理論的には国際法と憲法との調和に価値を認める。また、「現代においては、憲法上の責任が、国際的責任よりもより具体的である」こと、為政者の憲法上の責任については「憲法違反の宣戦の場合は、為政者にとつて憲法上の、したがつて刑法上の責任をひきおこす」と述べている。(ミルキヌーゲツエビイチ「国際憲法」宮沢俊義・小田滋訳、岩波現代叢書二二三頁)

戦争を起した者に刑事罰を加えるという思考は、実務面にもあらわれ、列国議会同盟第二八回会議で国家に対して戦争を刺戟した者に刑事罰を科すように各国の刑法改正の提案が決議されたし、ポーランド、ルーマニア、ブラジルの各刑法草案には戦争宣伝を罪とする規定がもりこまれたといわれる。

このように、平和の問題を国際法上の問題から、さらに各国の国内法的効力をもちうべき方向へと、さまざまな努力が重ねられてきたが、日本国憲法の平和主義条項は、平和――不戦の確保を国と国民の間の権利義務として実定憲法上はじめて明確に定めたものであり、その画期的意義と先駆性こそ日本国憲法の一大特徴にほかならないことは、確定した解釈といつて過言でない。

五、平和的生存権の憲法上の保障

(一) 平和的生存権は、実定憲法にその根拠を有する基本的人権である。

憲法前文は、平和主義の原則が日本国憲法の基本原理の一つであることを確認したうえで、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し」、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」した。

これは、前述の歴史的経過の中で、人権の前提条件として平和を考え、かつ平和をそれ自体人権としてとらえるという思想を、第二次世界大戦及び原子爆弾の投下を通して内外ともにはかりしれない惨禍を生ぜしめたわが国において、世界に先がけて憲法典の中に採り入れたものにほかならない。

戦争の危険に再びさらされている現在、憲法典が戦争の惨禍が起ることのないように決意し、そのための客観的保障として戦争を放棄し、戦力の不保持を明確に定め、あわせて「平和のうちに生存する権利」の確認を前文において行なつている意味の重大性を適確にとらえることが今何よりも求められている。

そして、このようにとらえられる限り、憲法前文中に明確に「権利」として位置づけられている「平和のうちに生存する権利」は、憲法規範の中核にすえられた概念として、国民主権、代表民主制と並び絶対的な法的拘束力、従つて裁判規範性を有するものと解されるべきである。

(二) ところで、原判決は右の点につき、憲法前文が法的性格を有することを認めながら、国民主権主義及び代表民主制の法的拘束力が絶対的であるのに対し、平和主義の原則は崇高な理念ないし目的を述べたにとどまるものとして「平和のうちに生存する権利」の裁判規範性を否定する。

しかしながら右論旨は根本的に誤まりである。

まず、原判決が前文第一項と第二項以下とで法的拘束力に異なるものがあると述べる理由は、① 規定の内容たる事項の性質と、② 規定の形式の相違の二つである。

右のうち、規定の内容たる事項の性質については、原判決自体国民主権主義及び代表民主制が絶対的法的拘束力を有するのに対し、「平和のうちに生存する権利」が何故にかかる拘束力を有しないのかにつき具体的理由を何ら述べてはいない。

前者が「主権の所在、政体の形態」にかかわるのに対し、後者は「国政の運用に関する主義、原則」にかかわるというのみでは、法的性質に差異を設ける合理的理由となり得ないことが明らかである。

原判決のかかる論理は、根本的には既に述べた「平和のうちに生存する権利」が憲法前文に明記されるに至つた歴史的脈絡とその意味に対する認識の欠落にもとづくことはもとよりとして、そもそも形式的論理操作としてさえ意味をもち得ないものであることを強調しておきたい。

次に、原判決のいう「規定の形式の相違」についてみれば、かかる論理の立て方自体、憲法前文につき一般に承認されている法的規範性に対する無知ないし意識的看過にもとづくものとしかいいようがなく、仮に右論理に立つとしても「形式の相違」による区別は到底合理性をもち得ない。

すなわち、原判決は、前文第一項につきその末尾に「これに反する一切の憲法、法令、及び詔勅を排除する」と記載されているのに対し、第二項以下では「国の政治における指導理念」や「国政の方針」しか示されていないという点を重要な論拠としているが、仮に「これに反する一切の憲法、法令、及び詔勅を排除する」との文言が前文第二項以下に直接かからないとしても、第二項以下も原判決自身認めるように憲法典の一部であり、そうである以上憲法第九八条一項の適用を受けるべきことが明らかである。

その意味では、右文言がかかるか否かを以て前文第一項と第二項以下の法的性質の相違をいう論拠とはなし得べきものでない。

また、前文第二項以下において平和をわが国の「指導理念」とし「国政の方針」としていることを肯定するとしても、そのことを以て「平和のうちに生存する権利」の法的拘束力ひいては裁判規範性を否定する論拠とはなし得ない筈である。

更に、原判決は右論旨との関連で「理念としての平和の内容については、これを具体的かつ特定的に規定しているわけではない」とも述べるが、前文第二項以下の文言についても、砂川事件最高裁判決が示すように、具体的意味内容をそこへ充てんすることができ、現に右砂川事件最高裁判決は、前文第二項中の文言に具体的かつ特定の確釈をほどこしてその裁判規範性を認めたのである。

こうしてみれば、原判決の右論旨もまた前文第二項以下の法的拘束力ひいては裁判規範性を否定する論拠とはなり得ない。

(三) 更に、原判決は、以上に批判したとおり何らの合理性も有しない「前文第一項と第二項以下との法的性質の差異」を前提としたうえで、「平和のうちに生存する権利」につき、「裁判規範として何ら現実的、個別的内容をもつものとして具体化されているものではない」と断ずるのであるが、右論旨の前提たる前文相互間の「差異」が認められない以上、右論旨もまた成り立ち得ないものとなることをまず指摘しなければならない。原判決の右論旨は、何よりも「平和のうちに生存する権利」を憲法前文に採り入れた前記の歴史的脈絡とその意味に対する認識を完全に欠いている。

また「平和のうちに生存する権利」が憲法第九条による戦争の放棄と戦力の不保持という制度的保障を伴なう具体的権利であるという実態を意識的に看過している。

更に、前文第一項と第二項相互間、及び前文と本文各条項相互間の規定の仕方の具体性の差異は単に相対的差異にとどまり、これを以て法的拘束力、ひいては裁判規範性を否定し得る根拠とはなし得ないという一般的法常識からさえ逸脱している。

判例を見ても、前文第二項については、前記砂川事件最高裁判決は、その裁判規範性を肯認し、前文第二項中の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」の文言を積極的に援用して、これを単なる解釈基準にとどまらず、それ自体を合衆国軍隊の駐留を合憲とする(この結論自体は誤まりである)論拠としている。

右判決が憲法前文、第九条、第九八条二項を同列に並べ、「これら規定の趣旨に適合こそすれ」と述べているのは前文と第九条等との間に質的差異を認めず、前文自体の裁判規範性を肯認するものにほかならない。

以上に述べたとおり、憲法前文第二項、なかんずく「平和のうちに生存する権利」についての原判決の解釈は、いずれも誤りというほかなく、前文の右部分が法的拘束力、ひいては裁判規範性を有することは明らかというべきである。

画ところで、平和的生存権は、右に述べたとおり憲法前文に既に法的拘束力ひいては裁判規範性を認め得る憲法上の直接的根拠を有するものであるが、あわせて、第九条により、戦争放棄、戦力不保持という形でその制度的保障――正確には平和的生存権の客観的、制度的前提条件の確保――がなされているとみるべきものである。

原判決は、右の点につき、「第九条は、前文における平和主義の原則を受けて規定されたものであり、前文に比し平和達成のためより具体的に禁止事項を列挙しているが、なお国家機関に対する行為の一般的禁止命令であり、その保護法益は一般国民に対する公益というほかなく、これによつて特定の国民の特定利益保護が具体的に配慮されているものではない」「また、憲法第三章各条には国民の権利義務につきとくに平和主義の原則を具体化したと解すべき条規はない」と述べ、これを以て平和的生存権の法的拘束力、ひいては裁判規範性を否定する論拠の一つとしている。

憲法前文第二項に平和的生存権の裁判規範性を認め得べき憲法上の直接的根拠を見出し得ることは、すでに論じたとおりであるが、原判決の右論旨には重大な憲法解釈の誤まりが存在するので、以下にこれを指摘する。

まず、原判決の憲法第九条解釈について見れば、同条項が一面において、いわゆる国家機関に対する行為の一般的禁止命令としての性格を有することは否定し得ないにしても、そこから同条項の保護法益をただちに「公益」と断じているのは、論理の飛躍である。

何故なら原判決の論旨は、憲法第九条が国民個々人にとり「平和のうちに生存する権利」が確保されるために、客観的、制度的保障として規定された事実を看過しているし、第九条が禁止命令であるとしても、これに違反する国家機関の行為により生ずる国民個々の利益侵害が、権利としての救済に値するものとして保護されることこそ右条項の立法趣旨に適合するというべきである。

もとより、第九条の文言上、国民の特定の利益保護が具体的に配慮されていると言い難いことは事実であり、従つて同条項を以て個々の権利侵害救済の直接的根拠とはなし得ないにせよ、少なくとも、同条項が「国民が戦争の脅威のない平和な状態で生存し、戦争ないし戦争目的のために生命、身体、自由、及び財産が奪われることのない権利」を享受するための客観的前提条件をなしていることは疑いのない事実である。

かつ、第九条が戦争放棄、戦力不保持を規定したことにより、平和的生存権の概念及び内容が右趣旨に合致するように拡大され補強されていると解されるべきである。

以上に述べたところから、第九条と平和的生存権との密接不可分な関連性は明らかであつて、原判決の前記論旨はそれ自体第九条の形式論理的解釈論に堕し、その法規範としての真の意味を看過するものとの批判を免れず、これを以て平和的生存権の裁判規範性を否定する論拠となすことは失当というほかない。

ここで、右と関連して若干敷衍すれば、かかる直接的な人権規定と言い得ない憲法第九条が平和的生存権に具体的意味、内容を付与し得るとすれば、それは憲法第一三条を媒介としてであり、従つて同条項は、「制度的保障(第九条)と主観的権利(平和的生存権)の保障内容およびその限界の解釈にあたつて、妥当な調整・連結の要をなす」(深瀬忠一)ということができるのである。

その意味において、憲法第一三条は、前文第二項の存在のもと、それとともに、平和的生存権の憲法上の根拠の一つと解されるべきである。

(五) 次に、原判決の前記憲法第三章解釈論もまた重大な誤まりを含んでいる。

まず、既に述べた平和的生存権の歴史的脈絡、日本国憲法における地位、根拠に照らせば、その概念内容は、「国民が戦争の脅威のない平和な状態で生存し、戦争ないし戦争目的のために生命、身体、自由、及び財産が奪われることのない権利」として規定することができるのであり、その具体的内容としては、憲法第三章の人権諸規定に示された権利内容を含むことはもとより、右人権諸規定が直接包含し得ない権利内容にまでその範囲が及ぶことは右権利の性質上当然というべきである。

その意味において、憲法第三章の人権諸規定を直接根拠とするか否かにかかわりなく、平和的生存権は右の如き豊かで広範な内容を有する権利として生成し、発展してきたものと解されるのである。

従つて、原判決が憲法第三章に平和的生存権に関する明示的規定が存在しないとの一事を以て、その裁判規範性を否定することは失当といわなければならない。

なお、右と関連して、かかる内容を有する平和的生存権は既に述べたとおり憲法前文第二項の存在のもとに、人権の総論的規定である憲法第一三条により合わせ根拠づけられると共に、内容面においても右条項中に包括的に包含され得るものであることを指摘しておきたい。同条項に、「生命、自由、及び幸福追求に対する国民の権利」として規定される内容の一つとして、既にプライヴァシーの権利、人格権、環境権等が定着してきている事実は右の証左となるものである。

とくに、同条項にいう「公共の福祉」の内容として、憲法第九条の存在のもとで、「戦争放棄」「戦力不保持」を逸脱、侵犯する国家行為が含まれないことが明らかである以上、平和的生存権はかかる国家行為に対しても保障されることになる。

以上述べたとおり、平和的生存権は、実定憲法に具体的根拠を有する基本的人権として観念され、法的拘束力、ひいては裁判規範性を有する権利であることは明らかというべきである。

第三部 附論<省略>

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